デジタル大辞泉
「本多静六」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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ほんだ‐せいろく【本多静六】
- 林学者。埼玉県出身。日本最初の林学博士。日比谷公園などを設計し、国立公園の設置に尽力した。帝国森林会会長。著書「本多造林学」など。慶応二~昭和二七年(一八六六‐一九五二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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本多 静六
ホンダ セイロク
明治〜昭和期の森林学者 東京帝大名誉教授。
- 生年
- 慶応2年5月20日(1866年)
- 没年
- 昭和27(1952)年1月29日
- 出生地
- 埼玉県
- 旧姓(旧名)
- 柳原
- 学歴〔年〕
- 東京農林学校林学部本科(現・東京大学農学部林学科)〔明治23年〕卒
- 学位〔年〕
- 林学博士〔明治32年〕
- 経歴
- 父の急死で生家柳原家が没落、少年時代に苦学した。のち本多家の養子となり、明治23年東京農林学校を卒業、同年ドイツ・ミュンヘン大学に留学、国家経済学博士の学位を得て帰国。25年東京帝大助教授となり、33年教授に進み、32年に日本最初の林学博士となる。昭和2年定年退官まで37年の教壇生活。この間、国立公園・国定公園の創設、防雪林、水源林など造林学の実践に貢献した。また明治神宮神苑や日比谷公園などを設計、帝国森林会、日本庭園協会を創立した。一方、山林、山地、株などに投資、学者としては珍しく財をなし、5年には5000ヘクタールの美林を育英事業のため郷里埼玉県に寄付した。東大名誉教授となってからは身上相談や道徳訓話を行った。著書に「本多造林学」(全10巻)、「処世の秘訣」「新人生観と新生活」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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本多静六 (ほんだせいろく)
生没年:1866-1952(慶応2-昭和27)
林学者。埼玉県に生まれ,帝国大学農科大学林学科を1890年に卒業ののち,ドイツに留学。帰国後,母校の教授として後進を指導。《造林学前論》全5巻,《造林学本論》全5巻,《造林学後論》全3巻などの著書のほか,《日本の植物帯殊ニ森林帯ニ就テ》《我国地力ノ衰弱ト赤松》などの論文がある。後者の論文の主旨はアカマツ林の増加は地力の衰弱を意味し,生産力の減退と洪水干ばつの増加をもたらすというもので,〈赤松亡国論〉として知られる。学者としての活動のほか,大学演習林の創設,東京都水源林の設置に尽力。
執筆者:筒井 迪夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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本多静六 ほんだ-せいろく
1866-1952 明治-昭和時代の林学者。
慶応2年7月2日生まれ。ドイツ留学後,母校帝国大学の助教授。「日本森林植物帯論」で日本初の林学博士となり,明治33年東京帝大教授。日比谷公園,明治神宮など各地の公園や庭園を設計した。昭和27年1月29日死去。85歳。武蔵(むさし)埼玉郡出身。旧姓は柳原。著作に「本多造林学」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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本多 静六 (ほんだ せいろく)
生年月日:1866年5月20日
明治時代-昭和時代の林学者。東京帝国大学教授
1952年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の本多静六の言及
【日比谷公園】より
…そこで建築家辰野金吾に公園設計を依頼したが,幅10間の大道路を中心とするあまりに西洋的な案で,採用されず,実施を迫られた東京市は,みずから設計案を作成した。その案を発展させる形で,林学者本多静六(1866‐1952)が実施案を作成した。この際一部分を日本庭園とするべく小沢圭次郎に依頼したが,当初案は失敗し,この一角はのちまで変転を重ねた。…
※「本多静六」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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