津田宗及(読み)ツダソウキュウ

デジタル大辞泉 「津田宗及」の意味・読み・例文・類語

つだ‐そうきゅう〔‐ソウキフ〕【津田宗及】

[?~1591]安土桃山時代の豪商・茶人。の人。三十六人会合衆えごうしゅうの一人、天王寺屋津田宗達の子。号、幽更斎。茶を武野紹鴎たけのじょうおうに学び、千利休今井宗久とともに三宗匠と称された。「津田宗及茶湯日記」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「津田宗及」の意味・読み・例文・類語

つだ‐そうきゅう【津田宗及】

  1. 安土桃山時代の茶人。名を「そうぎゅう」とも。堺の会合衆の一人。屋号天王寺屋。宗達の長男。千利休、今井宗久とともに、織田信長豊臣秀吉に仕え、御茶頭(おさどう)をつとめた。著「津田宗及茶湯日記」。天正一九年(一五九一)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津田宗及」の意味・わかりやすい解説

津田宗及(つだそうきゅう)
つだそうきゅう
(?―1591)

桃山時代の豪商、茶匠。天王寺屋(てんのうじや)を屋号とする堺(さかい)の会合衆(えごうしゅう)の一人。『天王寺屋会記』を書き始めた宗達(そうたつ)の嫡子。通称助五郎、更幽斎と号す。堺南宗寺(なんしゅうじ)の大林宗套(だいりんそうとう)に参禅し、天信の道号を授けられている。貿易業を営んで四国や九州に大きく商圏を伸ばしていた天王寺屋一族の財力は、堺衆のなかでも屈指のものであったが、その基礎を築いたのは、宗及の祖父津田宗柏(そうはく)(1444―1527)であった。宗柏は古今伝授(こきんでんじゅ)を牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)、茶の湯を村田珠光(じゅこう)に学んだといわれる風流人で、武野紹鴎(たけのじょうおう)に先んじて茶の湯を愛好した堺衆の一人であった。嫡子の宗達(1504―66)は、44歳のとき、1548年(天文17)から茶会記を書き始めている。

 宗達のあと天王寺屋の3代目を継いだ宗及は宗達や紹鴎に茶を学び、1566年(永禄9)から87年(天正15)にわたる千数百会の自会記と他会記を記録しているから、この時期が活躍の最盛期であろう。永禄(えいろく)初年には名物茶入(めいぶつちゃいれ)の切型(きりがた)をつくって鑑賞の助けにしたといわれ、桃山時代随一の目利きといわれる基礎をこのころから築いている。68年の織田信長入洛(にゅうらく)に際し、堺に課した2万貫に及ぶ矢銭(やせん)を受け入れるか否かで対立したとき、初め中立の立場をとっていたが、やがて信長に傾き、その茶道(頭)(さどう)に取り立てられている。また、豊臣(とよとみ)秀吉天下統一後は、今井宗久(そうきゅう)、千利休(せんのりきゅう)とともに天下の三宗匠の一人として3000石を賜っている。87年、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)に三宗匠の一人として点前(てまえ)を披露した。

[筒井紘一]


津田宗及(つだそうぎゅう)
つだそうぎゅう

津田宗及

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改訂新版 世界大百科事典 「津田宗及」の意味・わかりやすい解説

津田宗及 (つだそうきゅう)
生没年:?-1591(天正19)

安土桃山時代の茶人。当時は〈そうぎゅう〉と呼ばれたらしい。千利休,今井宗久とともに天下三宗匠と称せられた。堺の会合衆(えごうしゆう)天王寺屋の惣領。父宗達の代に三好氏,本願寺に通じ,宗及に至って家業は発展した。しかし財閥特権商人としては今井宗久に圧せられ,茶匠としては千利休に一歩を譲る。初め隼人を称し,のち助五郎と名のるが,1566年(永禄9)より宗及と改称。更幽斎,天信と号す。また本願寺の門徒として法眼の称も得ている。宗及は父宗達より武野紹鷗の茶法を得て,和歌,連歌,挿花,聞香をよくし,道具類の目利きは当代随一といわれた。69年織田信長が堺に2万貫の矢銭を強要すると,時世の推移を見抜いた宗及は,一戦交えようとする強硬派を説得する穏健派にまわり,結局事なきを得た。やがて信長の茶頭(道)となって社会的地位を高め,信長没後は豊臣秀吉の茶頭となり,3000石を知行したという。有名な北野大茶湯では,利休とともに指導的役割を担った。宗達,宗及,宗凡3代にわたる《天王寺屋会記》は,《松屋会記》《今井宗久茶湯日記抜書》《宗湛日記》とともに四大茶会記といわれ,貴重な資料となっている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「津田宗及」の解説

津田宗及

没年:天正19.4.20(1591.6.10)
生年:生年不詳
安土桃山時代の堺の豪商,茶人。津田宗達の子。天王寺屋,通称助五郎,宗及,天信また更幽斎と称す。天文4(1535)年『念仏差帳日記』にある材木町の天王寺屋助五郎は,宗及と推定されている。畿内の武将や本願寺坊官の下間氏などと関係が深かったが,入洛した織田信長と結びついて活躍し,所領の管理,年貢などの販売,物資の調達など,広く畿内から九州におよぶ商活動を行ったと考えられる政商であった。今井宗久と共に3000石を領したといわれ,宗久は天正11(1583)年に摂津2200石の知行状が残るが,宗及は山城宇治で182石分がわかるのみである。もちろん茶人として聞こえ,堺で六十余人の弟子がいたと伝え(『長闇堂記』),宗久,千利休と共に信長の茶頭となり,天正2年4月の相国寺の茶会では,利休と共に正倉院の蘭奢待を与えられた。本能寺の変の際は,堺で徳川家康を供応していたが,その後,豊臣秀吉の茶頭となり,大徳寺や北野の大茶会に重要な役割を果たし,九州出兵や関東攻めに同道した。永禄8(1565)年~天正15年の茶会記を残し,堺・南宗寺に墓がある。<参考文献>永島福太郎「『天王寺屋会記』解題」(『茶道古典全集』7,8巻)

(脇田修)

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百科事典マイペディア 「津田宗及」の意味・わかりやすい解説

津田宗及【つだそうきゅう】

安土桃山時代の茶人。堺の会合衆天王寺屋の総領。津田宗達〔1504-1566〕の子。通称助五郎。号は天信,幽更斎。織田信長・豊臣秀吉に仕え,北野大茶湯では千利休今井宗久らと指導役をつとめた。《天王寺屋会記》は有名。
→関連項目武野紹鴎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津田宗及」の意味・わかりやすい解説

津田宗及
つだそうきゅう

[生]?
[没]天正19(1591).4.20. /文禄1(1592).8.9. 堺
安土桃山時代の茶人。堺派。通称は助五郎。号は天信,幽更斎。堺の豪商津田宗達の嫡子で武術,生花,聞香,歌道に秀でた。茶人として織田信長,豊臣秀吉に仕え,天正 15 (1587) 年の北野大茶会では千利休,今井宗久らとともに亭主をつとめた。前記2人とともに三大宗匠といわれる。津田宗達,宗及,宗凡の祖父子三代の茶会記をまとめた『天王寺屋会記』 (『津田宗及茶湯日記』 16巻) は,その茶道観,道具の記述において著名で,また安土桃山時代の政治的記述も多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「津田宗及」の解説

津田宗及
つだそうぎゅう

?~1591.4.20

織豊期の堺の豪商・茶人。津田宗達の子。江月宗玩(こうげつそうがん)の父。屋号は天王寺屋。通称助五郎。父と同様に本願寺と関係が深かったが,1568年(永禄11)織田信長が堺に矢銭を課すと,信長と結ぶ道を選んだ。武野紹鴎(じょうおう)の弟子だった父から手ほどきをうけた茶の湯の技量と資力により,信長・豊臣秀吉に茶頭・政商として仕えた。今井宗久・千利休とともに三宗匠と称され,秀吉の北野大茶湯をつかさどった。武芸・蹴鞠(けまり)の道にも堪能で,参禅もした文化人。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津田宗及」の解説

津田宗及 つだ-そうぎゅう

?-1591 織豊時代の茶人。
津田宗達の長男。堺(さかい)の豪商。織田信長,豊臣秀吉に茶頭(さどう)としてつかえる。天正(てんしょう)15年北野大茶湯では亭主をつとめ,千利休,今井宗久とともに三宗匠とよばれた。天正19年4月20日死去。通称は助五郎。号は更幽斎。道号は天信。屋号は天王寺屋。茶会記に「津田宗及日記(天王寺屋会記)」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「津田宗及」の解説

津田宗及
つだそうぎゅう

?〜1591
安土桃山時代の豪商・茶人
津田宗達の子。号は幽更斎。堺の人。茶道にすぐれ,千利休・今井宗久らとともに,織田信長・豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶湯をつかさどり,当代3宗匠の一人に数えられた。

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