日本大百科全書(ニッポニカ) 「田辺藩」の意味・わかりやすい解説
田辺藩(丹後国)
たなべはん
丹後(たんご)国田辺(京都府舞鶴(まいづる)市)周辺を領有した譜代(ふだい)藩。宮津藩支封。舞鶴藩ともいう。丹後田辺は古く細川氏が領したが、1601年(慶長6)京極高知(きょうごくたかとも)が信濃(しなの)(長野県)飯田(いいだ)から入封し、翌年丹後一国5郡の検地を実施し、12万3000余石を検出。高知は1622年(元和8)に没し、そのあと丹後は三分され、田辺(加佐(かさ)郡のうち121か村)3万5000石は次子高三(たかみつ)が継いだ(長子高広は宮津藩7万8200石、養子高通(たかみち)は峰山(みねやま)藩1万3000石)。ついで高直(たかなお)、高盛(たかもり)と家督を継ぎ、1668年(寛文8)但馬(たじま)(兵庫県)豊岡(とよおか)に移封された。そのあとへ同年牧野親成(ちかしげ)が河内(かわち)(大阪府)高安(たかやす)から3万5000石で田辺に入封し、親成(1678年没)が1673年(延宝1)隠居したあと、富成(とみしげ)(1693年没)、英成(ひでしげ)(1737年隠居)、明成(とししげ)(1750年没)、惟成(これしげ)(1783年没)が相継いだ。初代親成は京都所司代、3代英成は寺社奉行(ぶぎょう)を勤め、また天明(てんめい)(1781~89)ごろに藩校明倫館を開いた。その後は6代宣成(ふさしげ)、7代以成(もちしげ)、8代節成(ときしげ)、9代誠成(たかしげ)と続き、10代弼成(すけしげ)のとき舞鶴藩と改称し、1871年(明治4)廃藩置県で舞鶴県となり、豊岡県を経て京都府に編入。
[井上正一]
田辺藩(紀伊国)
たなべはん
紀伊国牟婁(むろ)郡田辺(和歌山県田辺市)周辺を領有した藩。領地は名草(なぐさ)郡2村、有田郡1村、日高郡34村、牟婁郡67村に及んでいた。1600年(慶長5)浅野幸長(あさのよしなが)が紀州に入国後、田辺には浅野左衛門佐(さえもんのすけ)を置いた。1619年(元和5)浅野氏にかわって徳川頼宣(よりのぶ)が入国し、付家老(つけがろう)安藤直次(なおつぐ)が田辺に配置され、紀州藩田辺領となり、3万8000石を領有した。正式に藩となったのは1868年(明治1)で、それまでは紀州(和歌山)藩の支藩的存在で、民政などはある程度の独自性をもっていた。領主は和歌山に住み、宗藩の藩政を助け、田辺には一族を置いて政治を行った。特産物として現在まで有名なものに備長炭(びんちょうたん)があり、うなぎの蒲焼(かばや)きなどに珍重されている。田辺の炭問屋備中屋長左衛門(びっちゅうやちょうざえもん)が江戸や大坂に売り広めたといわれる。1871年廃藩、田辺県を経て和歌山県に編入された。
[安藤精一]
『『田辺市誌』全2冊(1952、71・田辺市)』▽『安藤精一著『和歌山県の歴史』(1970・山川出版社)』