福田行誡(読み)フクダギョウカイ

デジタル大辞泉 「福田行誡」の意味・読み・例文・類語

ふくだ‐ぎょうかい〔‐ギヤウカイ〕【福田行誡】

[1809~1888]幕末明治浄土宗の僧。武蔵の人。号、建蓮社立誉。維新廃仏毀釈きしゃくに際し、諸宗の僧と同盟会を組織して仏教擁護のために活躍。浄土宗管長。縮刷大蔵経刊行にも貢献。著「雪窓答問」など。

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精選版 日本国語大辞典 「福田行誡」の意味・読み・例文・類語

ふくだ‐ぎょうかい【福田行誡】

  1. 浄土宗の僧。明治仏教界の中心的人物。字は晉阿。号は建蓮社立誉。六歳で江戸小石川伝通院の伴頭寛淳について仏門にはいり、のち京都・奈良に遊学し、諸宗の学問を修めた。縮刷大蔵経の刊行に際しては監修担当。文化六~明治二一年(一八〇九‐八八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「福田行誡」の意味・わかりやすい解説

福田行誡
ふくだぎょうかい
(1809―1888)

江戸末期から明治前期の代表的な仏教学僧。浄土宗伝通院(でんずういん)学頭、増上寺法主、知恩院(ちおんいん)門主、浄土宗管長。歌人。武蔵(むさし)国(東京)豊島(としま)郡山谷の出生と伝えられ、諱(いみな)は初め大堂、字(あざな)は普阿、建蓮社立誉(けんれんしゃりつよ)と号する。6歳で出家、19歳で京都に遊学し立道に宗学、慧澄(けいちょう)(1780―1862)らに天台学などを学び、自ら通仏教と浄土学を学風とすると称する。両国回向院(えこういん)住職のとき明治維新となり、廃仏棄釈に対して諸宗の僧を糾合し同盟会を結び自ら盟主となり仏教界の危機を救い、浄土宗大教院の教頭に任ぜられる。1880年(明治13)島田蕃根(しまだばんこん)と『縮刷大蔵経(だいぞうきょう)』を編纂(へんさん)、著述は『行誡上人(しょうにん)全集』全1巻(1942・大東出版社)に収められている。

[塩入良道 2017年9月19日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「福田行誡」の解説

福田行誡 ふくだ-ぎょうかい

1809-1888 幕末-明治時代の僧。
文化6年4月9日生まれ。一説に文化3年生まれ。江戸小石川伝通院で出家。慧澄(えちょう)らにまなび,慶応2年両国回向院住職。維新後の廃仏毀釈に対しては,諸宗同盟会盟主として活躍。増上寺法主,知恩院門主,浄土宗管長をつとめる。「縮刷大蔵経」の刊行につくした。明治21年4月25日死去。80歳。武蔵(むさし)豊島郡(東京都)出身。字(あざな)は晋阿。号は建蓮社立誉(りゅうよ)。
【格言など】とにかく平日なぐさみのように読書すべし(僧侶たちへの遺書)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福田行誡」の意味・わかりやすい解説

福田行誡
ふくだぎょうかい

[生]文化3(1806)
[没]1888.4.25.
浄土宗の僧。武蔵の人。小石川の伝通院で出家し,比叡山で仏教を学んだ。明治維新には諸宗の代表と同盟会を組織して盟主となり,政府の僧侶肉食妻帯許可に反対した。大教院の教頭となり,伝通院,増上寺,知恩院に歴住し,浄土宗管長となった。学徳高く,和歌をよくした。著書『雪窓答問』『法語筆話』『大日本国法伝』『釈教百首』『於知葉集』など。

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367日誕生日大事典 「福田行誡」の解説

福田 行誡 (ふくだ ぎょうかい)

生年月日:1809年4月9日
江戸時代;明治時代の浄土宗僧侶。知恩院門主;浄土宗管長
1888年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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