宗教改革前夜のローマ・カトリック信仰の基礎は秘跡(サクラメント)で,教会での司牧の中心はミサの執行であった。教会と信仰のこのようなあり方への批判が高まるにつれて,しだいに聖書が信仰の基礎に置かれ,司牧活動では説教が重視されることになった。これに伴って15世紀の初めから,特に都市の教会では正規の司祭職のほかに,新しく説教職が,市参事会や裕福な家族によって設置される傾向が現れた。説教師Predigerは知性,学識において司祭にはるかに勝り,また教会と信仰の既成のあり方に批判的であったから,宗教改革への地ならしをするとともに,宗教改革の速やかな普及に貢献した。宗教改革期に入ると,教会での司牧の中心が説教となったから,司祭(牧師)が説教師と呼ばれることがある。再洗礼派をはじめ宗教改革期の急進派では,H.フートなどの例のように,しばしば俗人が説教師に選ばれて活躍した。
執筆者:田中 真造
イスラム社会では,金曜日正午の集団礼拝に先立ち,時の権力者の名において説教(フトバ)を行う人物をハティーブkhaṭībという。ウマイヤ朝(661-750)時代までは,カリフ自らがモスクの説教壇(ミンバル)に立ち,宗教的な教訓をたれるとともに,政治的な決定を公にした。しかしアッバース朝(750-1258)時代になると,ウラマー(学者,宗教指導者)のなかから専門のハティーブが任ぜられるようになり,地方の都市でも総督に代わってハティーブによる説教が一般化した。ハティーブが公的な職であったのに対して,ワーイズwā`iẓ(警告者)やカーッスqāṣṣ(物語師)は私的な立場から民衆に最後の審判を説き,預言者の伝記や伝承(ハディース)を語り歩いた。とりわけカーッスは平易な説教によって民衆の教化に重要な役割を演じたが,9世紀ごろまでにイスラムの教義が整えられると,彼らは誤った伝承を伝える者としてモスクから追放された。これ以後カーッスの社会的地位はしだいに低下していったものの,その軽妙な語り口のゆえに長い時代にわたって民衆の人気を博し続けた。
→説教
執筆者:佐藤 次高
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