内山(読み)ウチヤマ

デジタル大辞泉 「内山」の意味・読み・例文・類語

うち‐やま【内山】

江戸時代、一村落が占有し、その村民のみが共同収益できた林野

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精選版 日本国語大辞典 「内山」の意味・読み・例文・類語

うち‐やま【内山】

〘名〙 奥山、外山、入り山、野山に対する山で、一村または一集落が占有し、その村落民が共同使用し、収益する林野。里山。地付山
※律令要略(1741)山野海川入会「内山境雖之ど、地元之古畑等有之におゐては、内山なり」

うちやま【内山】

姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「内山」の解説

内山
うちやま

内山城跡および同城を中心とする地域をさす。城の築かれた時期、築城者などは不明。永享四年(一四三二)六月、島津方の軍勢は都於郡とのこおり(現西都市)六野原むつのばる(現国富町)の間に陣を布いたが、戦いの利に乏しいため内山に退却した。この頃は島津方の城であったものか。その後七月一四日の河骨合戦で島津方は大敗を喫している。文明一六年(一四八四)島津氏一族間の内訌に端を発した飫肥おびをめぐる争いのなかで、櫛間くしま(現串間市)伊作久逸の要請で伊東氏が飫肥に出陣した際、内山勢は伊東祐国の弟祐邑に付けられている。この頃には伊東氏領に転じていた。天文二年(一五三三)の伊東祐充没後の内訌で伊東祐清の対抗勢力であった伊東祐武は殺害され、その子左兵衛佐は米良氏を頼ったが、左兵衛佐方の勢力圏と接するたか(現木城町)などが祐清方についた。

内山
うちやま

中世よりみえる地名で、与良よら郡のうちと考えられる。弘長三年(一二六三)六月一〇日のなたるの尼浦山売券案(内山文書)に「うちやまのところ一所」とみえ、当所などを地頭「二らうむまとの」に売渡した。建武二年(一三三五)宗妙意は内山とくねは別の所であるので「くね」より「うちやま」への公事配分賦課を禁止することを内山の「いあミたふ」に認めている(同年九月一日「宗妙意書下案」同文書)。同五年一〇月一〇日の豆酘郡司満房等連署請文(同文書)によれば、「うちやま」の木庭は酘豆つつ在庁のものであったが、弥二郎左衛門入道のとき買得して相伝し、「くね」の左衛門入道の先祖が所持してきたので、現在「いあみたふ」が内山に居住していても迷惑だと思ったことはないが、伊阿弥陀仏がもとからある木庭を打壊し、神領を新しく木庭にするために木を伐ったことを嘆いたのであって、このことにより伊阿弥陀仏が訴えているような内山に向けて鉾や榊を立てるなどといったことはしていないと、豆酘郡司満戸・定使宮司「りんそし」・豆酘在庁のうち大行事が弁明している。

内山
うちやま

[現在地名]大宮町字五十河 内山

五十河いかがの北東に位置し、江戸時代は五十河村の枝村。標高約五〇〇メートル。竹野川の源流の地で、北西の高尾たかお山から内山に集まった渓流二条が西谷にしたに川に入り、南流して五十河川・久住くすみ川と合流して三重みえ谷を流れる。内山から北への道は宮津市字駒倉こまくらへ通じる。

内山の集落東北方に長者屋敷(真黒人まくろど屋敷)の伝説地がある。「日本書紀」顕宗即位前紀に載せる億計王の話に由縁するもので、三重の地にいた真黒人が、億計・弘計の二王子をここにかくまったというもの。現在その屋敷跡と伝える所に石組の跡が残る。

内山観音堂はもと当地にあった妙法みようほう寺の寺跡。妙法寺についてはつまびらかでないが、観音堂に残る享保一九年(一七三四)の棟札に「奉造立高尾山妙法寺観音堂 世話人村中家数八軒」とある。

内山
うちやま

加江田かえだ川の右岸、現加江田の内にあり、曾山寺そさんじ南東に隣接する。「上井覚兼日記」によれば、天正一一年(一五八三)二月二一日、宮崎地頭上井覚兼は加江田の内山で犬を使って狩を行い、猪・鹿を仕留めている。同年七月一八日、覚兼は紫波洲崎しわすざき城で父薫兼に大風・洪水の様子を報告した後、加江田に戻り内山の庵に宿泊している。同年八月一二日には覚兼は配下の者に肥前出陣の命を伝え、その晩内山へ行き、翌日紫波洲崎城に向かっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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