宝治合戦(読み)ホウジカッセン

デジタル大辞泉 「宝治合戦」の意味・読み・例文・類語

ほうじ‐かっせん〔ホウヂ‐〕【宝治合戦】

宝治元年(1247)三浦泰村北条時頼と戦って敗れた事件。三浦氏一族が自害して滅亡したことから、北条氏の独裁体制が確立した。三浦氏の乱。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝治合戦」の意味・わかりやすい解説

宝治合戦 (ほうじがっせん)

1247年(宝治1)6月,北条氏と三浦氏との間におこった合戦。三浦氏の乱ともいう。鎌倉将軍藤原頼経在職が長期にわたるにつれ御家人との結びつきが深まってその権勢が強まり,執権の権勢が不安定になることを北条氏に警戒されて更迭されたが,その後も鎌倉にとどまって〈大殿〉と称され,前将軍として勢力を保持していた。1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。三浦光村も頼経に接近してこの事件に関係したらしく,頼経を京都まで護送したのち,再び頼経を鎌倉に迎える考えをもっていたといわれる。前将軍頼経に接近して反北条氏的な動きを示した三浦氏に対して警戒を強めた執権時頼は,翌年外戚安達景盛らと謀って三浦氏を挑発し,鎌倉において光村の兄泰村以下三浦氏一族を滅ぼした。この時の合戦を宝治合戦とよんでいる。三浦氏は幕府草創以来の有力御家人で概して北条氏に協力的であり,三浦義村の女は北条泰時に嫁し,泰時の女は三浦泰村に嫁すなど緊密な関係にあったが,相模の雄族として北条氏に拮抗しうる最大の勢力であったため,和田合戦や伊賀氏の変などに際して反北条勢力に誘引されるなど,北条氏にとって最大の潜在敵手であった。自己に対抗しうる有力御家人を相次いで滅ぼし,執権として幕府内部での権力を独占しつつあった北条氏は,たまたま泰村に嫁した泰時の女が早世して両氏の姻戚関係が消滅し,しだいに疎遠となりはじめたころに,前将軍頼経を擁して時頼を打倒しようとする陰謀に三浦一族が荷担していることにつけ入り,幕初以来の有力御家人中唯一の生き残りである三浦氏を滅ぼしたのである。この合戦の結果,北条氏の得宗専制体制が確立された。鎌倉幕府政治史の上で注目すべき事件である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝治合戦」の意味・わかりやすい解説

宝治合戦
ほうじかっせん

1247年(宝治1)6月、鎌倉で起きた北条氏と三浦氏との戦い。三浦氏の乱ともいう。三浦氏は1213年(建保1)の和田合戦の際にも、同族の和田氏を見捨てて北条氏に荷担するなど、北条氏と密接に提携してきており、三浦泰村(やすむら)の代には姻戚(いんせき)関係も結んでいた。ところが1246年(寛元4)北条時頼(ときより)が執権に就任すると、北条氏の支流名越光時(なごしみつとき)は、前将軍九条頼経(くじょうよりつね)を擁して、時頼から執権の地位を奪おうとした(宮騒動)。これに泰村の弟光村(みつむら)もかかわっていたため、両者の間に疎隔が生じ始め、また三浦氏を挑発するような讒訴(ざんそ)もたび重なっていた。このような状況を打開するため、時頼は5月7日、泰村の次男駒石丸(こまいしまる)を養子とする約束を結び、ついで6月5日には万年馬入道(まんねんうまにゅうどう)・盛阿(せいあ)(平盛綱(もりつな))に誓紙を持たせて和談を成立させた。一方、北条氏の外戚で三浦氏と勢力を競っていた安達景盛(あだちかげもり)(覚智(かくち))は、事態の推移が安達氏に不利とみて、同日、子の義景(よしかげ)と孫の泰盛(やすもり)に命じて300余騎で不意に三浦邸を襲わせた。泰村がこれを時頼の襲来と判断して応戦したため、ついに戦端が開かれることとなった。これを聞いた時頼も、やむなく北条実時(さねとき)に幕府を守らせ、北条時定(ときさだ)を大手の大将軍として500騎をもって三浦邸を襲い、火をかけた。激闘のすえ、泰村は頼朝(よりとも)の墓所法華(ほっけ)堂に退き、永福(ようふく)寺で防戦していた光村もこれに合流し、一族276人、郎従家子(ろうじゅういえのこ)220人が同時に腹を切って自害した。首は翌日由比(ゆい)ヶ浜にかけられ、姻戚関係のある千葉氏もまた没落した。こうして時頼の独裁体制が確立したのである。

[菊池紳一]

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百科事典マイペディア 「宝治合戦」の意味・わかりやすい解説

宝治合戦【ほうじかっせん】

北条氏三浦氏を破った合戦。1247年(宝治1年)執権北条時頼は,鎌倉幕府創業以来の大御家人で幕政にも重きをなしていた三浦氏の打倒をねらって挙兵。時頼の外戚(がいせき)安達景盛の援助で三浦泰村ら三浦一族を鎌倉で全滅させた。以後北条氏は独裁体制を確立。
→関連項目一条実経神崎荘甑島列島野原荘三浦泰村

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝治合戦」の意味・わかりやすい解説

宝治合戦
ほうじかっせん

宝治1 (1247) 年執権北条時頼三浦氏一族を滅ぼした合戦。寛元4 (46) 年鎌倉幕府執権となった時頼は,前将軍九条頼経を立てて幕府の実権を奪おうとした名越光時らの陰謀を打ち破り,光時を出家させ伊豆に流し,頼経を帰京させた。さらに翌宝治1年時頼は,評定衆三浦泰村がこの陰謀に加盟していたとして,幕府内では北条氏と並んで勢力のあった三浦氏を挑発,謀略を用いて戦闘に持込み,ついに泰村以下一族近親五百余人を鎌倉法華堂に自殺させた。この戦いの結果,幕府内の北条氏の独占的地位が確立した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宝治合戦」の解説

宝治合戦
ほうじがっせん

三浦氏の乱とも。1247年(宝治元)6月5日,安達一族と執権北条時頼によって,三浦泰村一族が滅ぼされた事件。前年(寛元4)の宮騒動以後,泰村は弟光村が前将軍藤原頼経と近かったため,反時頼勢力の中心と目されていた。三浦氏の勢力に脅威を感じる安達景盛は,4月,三浦氏打倒の画策をめぐらして時頼に密訴し,鎌倉の緊張が高まった。時頼の勧めにより,6月5日,和平を約した泰村に対し,景盛が子の義景,孫の泰盛らに泰村邸を襲撃させると,時頼もこれに応じて北条実時に幕府守備を,時定に泰村邸襲撃を命令,三浦一族は源頼朝の墓所法華堂にたてこもって全員自殺した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「宝治合戦」の解説

宝治合戦
ほうじかっせん

1247(宝治1)年,鎌倉で行われた北条時頼と三浦泰村との合戦
三浦氏の乱・宝治の乱ともいう。北条氏と三浦氏は協調的関係を続け幕政に重きをなしてきた。泰村も北条泰時の女婿として勢力をふるったが,執権時頼の外祖父安達景盛父子と対立し,北条氏とも疎遠になった。'47年時頼・景盛の陰謀により一族は反抗したが敗亡。これ以後,北条氏の独裁体制が確立した。

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世界大百科事典(旧版)内の宝治合戦の言及

【藤原頼経】より

…頼経は翌年出家したが,なお声望を保ち,46年北条一族の名越光時が執権の地位を奪おうとした事件(宮騒動(みやそうどう))に関係して京都に追われた。この事件によって頼経の父道家も失脚し,三浦光村が頼経の寵臣であったことから,翌47年(宝治1)三浦氏も滅ぼされた(宝治合戦)。僧了行の幕府転覆の陰謀によって,52年(建長4)には頼嗣も鎌倉を追われ,九条一族が勅勘をこうむった。…

【北条時頼】より

…46年閏4月の兄経時の死没にさきだち3月23日執権となった。その直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年(宝治1)には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。49年(建長1)引付衆(ひきつけしゆう)を設けて訴訟制度を改革し,52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。…

【三浦氏】より

…その子泰村も北条泰時の娘をめとって北条氏と姻戚関係を結び勢力を強めた。しかし幕初以来の有力御家人がほとんど滅亡した中で唯一権勢を保つ三浦氏は,専制化する北条時頼の策謀により47年(宝治1)一族のほとんどが滅亡させられた(宝治合戦)。その中で義明の子佐原義連(よしつら)の孫盛時は北条方に立ったため,泰村が討たれたのち家督を継いで三浦介となった。…

【三浦泰村】より

三浦氏は幕府草創以来の有力御家人の最後の生残りとして幕府内部に重きをなし,泰村も北条氏と姻戚関係を結んで勢力をふるっていたが,北条氏は自己に対抗しうる勢力の存在を警戒し,46年(寛元4)名越(北条)光時が前将軍頼経と謀って執権時頼を除こうとした事件に泰村の弟光村が荷担していたことを利用して三浦氏の排斥を図った。泰村は北条時頼とその外戚安達景盛らの挑発に乗り,47年(宝治1)6月鎌倉で戦って敗死し(宝治合戦),相模の雄族三浦氏の本流は滅亡した。【新田 英治】。…

※「宝治合戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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