宣徳帝(読み)せんとくてい(英語表記)Xuān dé dì

改訂新版 世界大百科事典 「宣徳帝」の意味・わかりやすい解説

宣徳帝 (せんとくてい)
Xuān dé dì
生没年:1398-1435

中国,明朝第5代の皇帝。在位1425-35年。姓名は朱瞻基(しゆせんき),諡(おくりな)は章皇帝,廟号は宣宗,年号は宣徳。洪煕帝の嫡長子。その祖父にあたる永楽帝が北京遷都と対外積極政策を推進した時期,地方では従来からの土豪や新興の官僚地主による租税の滞納,農民逃亡が増大し,とりわけ江南地方でこの傾向が顕著になっていた。宣徳帝はその父洪熙帝の方針を継承し,全国の要地に有能な官僚を巡撫として派遣し,社会秩序と財政の再建を行い,たびたび租税減免の詔勅を発布する一方,独立戦争の激化したベトナムの支配を放棄し,モンゴル族タタール部の攻勢に直面して防衛線を長城の内側まで後退させるなど,内政第一・民生安定の政策を実施した。このため,財政はふたたび充実し,明朝の国力はひとまず回復した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宣徳帝」の意味・わかりやすい解説

宣徳帝
せんとくてい
(1398―1435)

中国、明(みん)朝第5代の皇帝(在位1425~35)。姓名は朱瞻基(しゅせんき)、諡(おくりな)は章皇帝、廟(びょう)号は宣宗(せんそう)。年号により宣徳帝とよばれる。洪煕帝(こうきてい)の嫡長子。その祖父にあたる永楽帝が北京(ペキン)遷都を断行し、対外積極政策を推進した時期、地方では、在来の土豪や新興の官僚地主による土地税の滞納、彼らから負担を転嫁された農民の逃亡が増大し、とりわけ揚子江(ようすこう)下流南岸の財政要地でこの傾向が顕著となっていた。

 宣徳帝は、名君洪煕帝が在位わずかに8か月で世を去ったのち、内政中心、民生安定を目ざすその方針を継承し、全国の要地に有能な官僚を巡撫(じゅんぶ)として派遣し、社会秩序と財政の再建に努めた。官田(国有地)の土地税負担過重の是正にはとりわけ力を注いだ。反面、中国からの独立戦争の激化したベトナムの支配を放棄し、対モンゴル防衛線を長城の内側にまで後退させるなど、対外的には活動の規模を大幅に削減した。このため財政はふたたび充実し、国力はひとまず回復した。

[森 正夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宣徳帝」の意味・わかりやすい解説

宣徳帝
せんとくてい
Xuan-de-di; Hsüan-tê-ti

[生]洪武31(1398)
[没]宣徳10(1435)
中国,の第5代皇帝 (在位 1425~35) 。名は瞻基 (せんき) 。廟号は宣宗。仁宗洪煕帝の長子。祖父永楽帝寵愛を受け,しばしばその巡幸征討に従った。明察果断で,叔父の漢王高煦 (く) の反乱を平らげ,諸王の勢力を押えて帝権を強化した。また楊士奇ら名臣の補佐を得て内治に努め,いわゆる仁宣の治が出現した。しかし対外的には消極策をとり,北は開平を退き,南は交趾を撤収した。明はこの時期から守勢に転じた。

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