岩佐勝以(読み)いわさ・かつもち

朝日日本歴史人物事典 「岩佐勝以」の解説

岩佐勝以

没年:慶安3.6.22(1650.7.20)
生年:天正6(1578)
江戸前期の画家。別名を又兵衛,号は碧勝宮,道蘊とも称した。摂津国(大阪府)伊丹城主荒木村重末子。天正7(1579)年,一族織田信長によって滅ぼされたが,2歳の勝以は救出され,のち母方の岩佐姓を名乗って成長した。武門の再興をあきらめ,画筆によって生きる道を選ぶ。元和年間(1615~24)越前(福井県)北之庄に移り,松平忠直・忠昌のもとで活動,画才をのばした。寛永14(1637)年,将軍家筋の用命を受けて,妻子を福井に残し江戸へ出た。このときの道中記が『廻国道之記』である。寛永15~17年,将軍家光の娘千代姫と尾張家の徳川光友との婚礼に際し,その調度品を制作。さらに寛永17年6月17日川越東照宮に奉納された「三十六歌仙図額」(川越東照宮蔵)を描き,江戸で多忙な制作活動に従った。絵を誰に学んだのかは明らかでないが,狩野内膳をその最初の師とする説がある。内膳の父は荒木村重の家臣であったことから,この説の信憑性は極めて高い。ただし又兵衛自身は,自らを“土佐光信末流”(川越東照宮「三十六歌仙図額」銘文)と称しており,またやまと絵の画風を身につけていることから,当時の土佐派に学んだ可能性も考えられる。いずれにせよ,和漢の諸画法に通じた又兵衛の画風は独創的なもので,当時の画壇の中でも異彩を放っている。代表作に「官女観菊図」(山種美術館蔵),「梓弓図」,「和漢故事人物図」(福井県立美術館蔵),「人麿・貫之像」(MOA美術館蔵)などがある。また「山中常盤」「上瑠璃」(いずれもMOA美術館蔵),「堀江物語」(香雪美術館蔵)など,特異な極彩色古浄瑠璃絵巻群も又兵衛ないしはその主宰する工房の作と考えられている。<参考文献>辻惟雄岩佐又兵衛」(『日本美術絵画全集』13巻)

(榊原悟)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岩佐勝以」の意味・わかりやすい解説

岩佐勝以
いわさかつもち

[生]天正6(1578).摂津,伊丹
[没]慶安3(1650).6.22. 江戸
江戸時代初期の画家。又兵衛とも称する。大名荒木村重の妾腹の子で,父失脚 (1579) 後京都西本願寺に逃れ,岩佐姓を名のったという。元和1 (1615) 年頃越前へ移る。その後寛永 14 (37) 年江戸へ下向。京都では二条昭実,越前では松平忠直,忠昌の知遇を得たと考えられるが,その作画活動には不明瞭な点が多い。基準作『三十六歌仙』画額 (川越東照宮) ,『官女観菊図』 (山種美術館) などのほかに『山中常盤絵巻』 (MOA美術館) ,『豊国祭礼図屏風』 (徳川美術館) などのすぐれた伝称作品が残る。顔貌や人体の表現には極端な誇張を伴う「又兵衛風」と称される個性的な様式がみられ,また歌仙,故事人物などの古典的題材を多く扱うが,その表現には奇趣に富む特異な傾向が現れている。明治までは江戸時代後期の「又兵衛浮世絵開祖説」を背景に,多くの無款の風俗画に「又兵衛筆」の伝称が冠されていたが,そのほとんどが否定されるにいたった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩佐勝以」の解説

岩佐勝以 いわさ-かつもち

岩佐又兵衛(いわさ-またべえ)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩佐勝以」の意味・わかりやすい解説

岩佐勝以
いわさかつもち

岩佐又兵衛

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の岩佐勝以の言及

【岩佐又兵衛】より

…江戸初期の画家。字は勝以(かつもち),又兵衛は通称。伊丹城主荒木村重の子と伝えられる。村重が織田信長に反逆し,その一族は処刑されたが,彼は難を逃れ,京都本願寺に隠れて母方の姓を名のり,京で成長したという。在京時代は織田信雄(のぶかつ)に仕えたともいい,また二条家に出入りした形跡がある。1615年(元和1)ころに越前北ノ庄(現,福井市)へ下り,松平忠直,忠昌の恩顧を受け,工房を擁して本格的な絵画制作を行ったと思われる。…

※「岩佐勝以」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」