新宮藩(読み)しんぐうはん

藩名・旧国名がわかる事典 「新宮藩」の解説

しんぐうはん【新宮藩】

江戸時代紀伊藩支藩として、紀伊(きい)国牟婁(むろ)郡新宮(現、和歌山県新宮市)周辺を領有した藩。ただし、公式に新宮藩になったのは、1868年の明治に改元される前の慶応4年1月で、3年後の71年(明治4)には廃藩置県により廃藩となった。藩校は漢学所(のち育英堂)。1619年(元和(げんな)5)に、駿府藩主だった徳川家康(とくがわいえやす)の10男徳川頼宣(よりのぶ)が和歌山に55万5000石で入封(にゅうほう)して親藩(しんぱん)の紀伊藩が成立したとき、付家老(つけがろう)として、田辺(田辺藩)に配された安藤直次(なおつぐ)とともに、水野重仲(しげなか)が新宮に配され、3万5000石と新宮城を与えられた。以後明治維新まで、水野氏代々藩主は和歌山に住んで宗家の藩政を助け、新宮には城代がおかれた。古くから熊野詣での地として栄えた新宮は熊野灘に面しており、熊野川を利用した材木木炭の積み出しが藩財政を支えた。1868年、明治新政府のはからいで徳川御三家の付家老5氏(水戸藩中山氏尾張藩成瀬氏・竹腰(たけのこし)氏、紀伊藩の安藤氏・水野氏)が藩屏(はんぺい)に列せられ、それぞれ独立の藩と認められた。新宮藩は71年の廃藩置県により、新宮県を経て和歌山県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新宮藩」の意味・わかりやすい解説

新宮藩
しんぐうはん

紀伊国新宮(和歌山県新宮市)周辺を領有した譜代(ふだい)藩。藩主水野氏。御三家紀州藩の新宮領で、公式に新宮藩となったのは1868年(慶応4)1月、忠幹(ただもと)のときで、71年(明治4)には廃藩置県となった。水野氏は紀州徳川家の付家老(つけがろう)の一つで3万5000石を領有した。1619年(元和5)に徳川頼宣(よりのぶ)が55万石を領有して紀州に入国したときに、付家老水野重央(しげなか)が新宮に配置された。幕末期には江戸詰の水野土佐守忠央(とさのかみただなか)を中心とする江戸派を形成し、隠居した10代藩主治宝(はるとみ)を中心とする和歌山派と対立して藩政に重要な役割を果たした。良質の熊野の木材や木炭が全国的に有名であり、廻船(かいせん)業、鍛冶(かじ)、造船業が発達し、幕末には軍艦や大砲も製造するほどの技術水準に達していたことは注目される。「丹鶴叢書(たんかくそうしょ)」の出版など文化水準も高かった。廃藩後、新宮県を経て和歌山県に編入。

[安藤精一]

『五来重・安藤精一監修『和歌山県の地名』(1983・平凡社)』『安藤精一著『近世都市史の研究』(1985・清文堂出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新宮藩」の意味・わかりやすい解説

新宮藩
しんぐうはん

明治初年,紀伊国 (和歌山県) 牟婁 (むろ) 郡新宮地方を領有した藩。堀内氏が慶長5 (1600) 年に除封後,元和5 (19) 年徳川頼宣が紀伊藩主として入封したとき,紀州家付家老水野重央 (しげなか) が支封3万 5000石を与えられたが,この水野氏が明治1 (1868) 年に譜代大名に列せられて新宮藩を称した。無席。 (→和歌山藩 )

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デジタル大辞泉プラス 「新宮藩」の解説

新宮藩

紀伊国、新宮(しんぐう)(現:和歌山県新宮市)周辺を領有した藩。紀伊藩に徳川頼宣が入封した際、付家老の水野重央が新宮に配置されたのが起源で、紀州藩新宮領として幕末まで存続。良質な木材を産し、熊野灘に面することから廻船・造船業も発達。明治元年(1868)に正式な藩となり、ほどなく廃藩置県を迎えた。

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