暁烏敏(読み)あけがらすはや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「暁烏敏」の意味・わかりやすい解説

暁烏敏
あけがらすはや
(1877―1954)

明治から昭和期の真宗大谷派僧侶(そうりょ)、仏教学者。石川県石川郡出城(でじろ)村北安田(白山(はくさん)市)明達寺(みょうたつじ)、暁烏依念(えねん)(?―1887)の長男。1891年(明治24)東本願寺得度(とくど)。1900年真宗大谷大学(現、大谷大学)卒業後、命ぜられて東京外国語学校に学び外交官を志すが、やがて退学佐々木月樵(ささきげっしょう)、多田鼎(ただかなえ)(1875―1937)らと清沢満之(きよざわまんし)に師事し、清沢が東京・本郷に開いた浩々洞(こうこうどう)の同人となり、精神主義運動に参加した。1901年、『精神界発刊にあたり編集庶務を担当した。1910年、講話会を通して異安心(浄土真宗の異端説)を問われた。1951年(昭和26)宗務総長。昭和29年8月27日没。

[池田英俊 2017年5月19日]

『『暁烏敏全集』23巻・著作刊行年表1(1956~1961・香草舎/27巻・別巻1・1975~1978・涼風学舎)』『常光浩然著『暁烏敏』(『明治の仏教者 下巻』1969・春秋社・所収)』

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改訂新版 世界大百科事典 「暁烏敏」の意味・わかりやすい解説

暁烏敏 (あけがらすはや)
生没年:1877-1954(明治10-昭和29)

明治~昭和期の真宗大谷派(東本願寺)の僧。石川県の明達寺に生まれた。金沢共立尋常中学,京都大谷尋常中学を終え,1896年真宗大学に入学。同年,清沢満之らによる東本願寺の改革運動に参加,大学改革派委員となり退学処分を受ける。翌年復学し,99年に卒業して明達寺の住職となる。東京の浩々洞において清沢の教えをうけ,精神主義に傾倒,以後それによる伝道活動に尽力した。寺内に香草社を創立して著述を出版し,文教院を設けて聖徳太子を奉賛した。1951年大谷派の宗務総長となり,同朋生活運動を展開した。《暁烏敏全集》23巻がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「暁烏敏」の意味・わかりやすい解説

暁烏敏
あけがらすはや

[生]1877.7.12. 石川
[没]1954.8.27.
真宗大谷派の僧。 1899年真宗大学卒業。清沢満之門下として信仰運動に清風を吹込み,1951年には大谷派の宗務総長となった。真宗大谷派では,61年,宗祖親鸞の 700回忌を機に,翌年から同朋会運動を始めたが,この運動は,既成仏教の布教教団への再出発に刺激を与えることになった。この運動は,真宗近代化先覚者,清沢満之の精神を継承しようと,同朋会の結成,本廟奉仕,特別伝道,を3本の柱とした。本廟奉仕は,およそ2泊3日の法話,座談,本山両堂 (親鸞の御影堂と阿弥陀堂) の清掃奉仕をかなめとするが,この形式は暁烏の実践していたものであった。多くの著書は『暁烏敏全集』 (27巻,別巻1) に収められている。

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百科事典マイペディア 「暁烏敏」の意味・わかりやすい解説

暁烏敏【あけがらすはや】

真宗大谷派の僧侶。石川県の明達寺に生まれる。1896年真宗大学に入学,同年,清沢満之らによる東本願寺の改革運動に参加,退学処分を受けたが,翌年復学し,1900年卒業。仏教の近代化をめざし清沢が主宰する浩々洞同人となり,雑誌《精神界》の編集に携わる。1915年明達寺に帰寺し布教につとめ,1925年には寺内に香草社を創立,著述を出版した。1951年真宗大谷派の宗務総長となり,同朋生活運動を展開。《暁烏敏全集》27巻がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「暁烏敏」の解説

暁烏敏 あけがらす-はや

1877-1954 明治-昭和時代の僧,仏教学者。
明治10年7月12日生まれ。清沢満之(まんし)に師事して浩々洞(こうこうどう)にはいり,明治34年雑誌「精神界」を発刊,精神主義をとなえる。のち生家の石川県真宗大谷派明達寺の住職となり,布教と著述につとめた。昭和26年同派宗務総長。昭和29年8月27日死去。77歳。真宗大(現大谷大)卒。法名は恵祐。著作に「歎異抄講話」など。
【格言など】人が自分を軽蔑して居るというて憤慨するのは自分自らが軽蔑しているのだ

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世界大百科事典(旧版)内の暁烏敏の言及

【親鸞】より

…しかし,1921年に〈恵信尼消息〉が発見され,また親鸞自筆と伝えられるものの筆跡研究が進むにつれて,親鸞の実在を疑う論は影をひそめた。他方,自己のはからいを捨てて阿弥陀一仏に帰依することを説いた親鸞の思想に対する,近代的な解釈が始まり,清沢満之(きよさわまんし),暁烏敏(あけがらすはや)などの思想家,宗教家の論著が人々に大きな影響を与え,《歎異抄》が知識人の間で広く読まれるようになった。近代的な自我意識が成立するなかで,自己を徹底的に凝視する親鸞の思想に共鳴する人々があらわれ,倉田百三の戯曲《出家とその弟子》は,若い知識人に強い影響を与えた。…

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