素盞嗚神社(読み)すさのおのじんじや

日本歴史地名大系 「素盞嗚神社」の解説

素盞嗚神社
すさのおのじんじや

[現在地名]新市町戸手 上戸手

神谷かや川が芦田あしだ川に合流する東側の平地天王てんのうにある。境内地二千三〇〇余坪、本殿東向き。元禄七年(一六九四)建立の鳥居から西に一直線上に神門・拝殿・幣殿・本殿と並び、幣殿の北側に天満宮、南側に蘇民そみん神社・疱瘡ほうそう神社がある。また幣殿の北側にある通用門は、相方さがた城の門を移築したものといわれる。近世まで牛頭天王社・天王社・祇園社・天王神社などと称したが、明治元年(一八六八)以後素盞嗚神社と公称。旧県社。祭神はもと素盞嗚尊一神であったが(神名帳考証、特選神名牒)、現在は稲田姫命・八王子命を合祀。「福山志料」によれば別当寺は早苗山天王寺(真言宗、町村栄明寺末寺)

明治元年一〇月の天王寺宛寺社役所発行文書(「天王寺光純日記」所引)に「天王社此度取吟式内の神社に相違無之に付、神号相改め素盞嗚神社と被仰出候、立石可致候」とあり、「延喜式」神名帳が「深津郡一座」として載せる「須佐能袁能スサノヲノノ神社」に治定された。

素盞嗚神社
すさのおじんじや

[現在地名]久留米市城南町

祇園神社ともいう。旧郷社。祭神は建速須佐能遠命。前身は久留米城外郭内の祇園ぎおん小路にあった真言宗祇園寺で、貞観年間(八五九―八七七)に久留米郷の鎮守として山城国から牛頭天王の分霊を勧請し、薬師如来を本地として歴代の社僧が祭祀を勤めてきたと伝える。天文三年(一五三四)祭礼が行われ、千灯があげられたという。元和七年(一六二一)有馬氏が神領二〇石を寄進再興が図られた。同九年祇園社の宝殿と拝殿を家老稲次壱岐が修復。正保四年(一六四七)久留米町の氏子が神幸の再興を出願、久留米藩主有馬忠頼が十間屋敷じつけんやしきに御旅所を寄進してから盛大となった(寛文十年寺社開基)

素盞嗚神社
すさのおじんじや

[現在地名]宝塚市長谷 道谷

長谷ながたに集落の北西部にあり、祭神は素盞嗚命、旧村社。普光ふこう寺仁王門を挟んで同寺と東西対称の神仏習合に基づく配置。長谷地区の産土神。弘治年中(一五五五―五八)僧斉持が同寺の脇から遷宮したという(明治一六年頃「地誌取調帳」宝塚市役所蔵)。永禄五年(一五六二)に祭神の木造を彫刻(明治三五年「神社由緒調査書」龍見家文書)。江戸時代は牛頭天王社で敷地七町余は文禄検地以前からの除地(延宝七年「長谷村検地帳」長谷自治会文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「素盞嗚神社」の解説

素盞嗚神社

広島県福山市にある神社。天武天皇の時代の創祀とされる。祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)など。祇園祭が伝わり、地元では「祇園さん」「天王さん」とも呼ばれる。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報