京都市東山区祇園町に所在する八坂(やさか)神社の祭礼。毎年7月17日から24日まで行われる。以前は祇園会(え)あるいは祇園御霊会(ごりょうえ)ともいった。東京の神田祭、大阪の天神祭とともに三大祭に数えられている。
起源は、平安時代の869年(貞観11)に全国に疫病が流行したため、これを八坂神社の祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭天王(ごずてんのう))の祟(たた)りとして、勅命により6月7日全国の国数に準じて鉾(ほこ)66本を立て、同月14日洛中(らくちゅう)の男児が神輿(みこし)を奉じて神泉苑(えん)に集まり、御霊会を修して除疫を祈ったことによるとされるが、970年(天禄1)あるいは975(天延3)の6月14日に行われた御霊会から始まるという説もある。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)で一時中絶したが、またおこり、江戸時代に山鉾の飾りつけなどに豪華を競った。明治以後は7月17日(前祭)と24日(後祭)の両日に山鉾(やまぼこ)巡行が行われたが、1966年(昭和41)に合併されて17日のみとなった。現在は24日に花傘巡行が行われる(2014年に、24日の山鉾巡行は復活した)。
祭りは前夜16日の宵山(よいやま)と当日17日、24日の山鉾巡行が中心であるが、それに先だち、吉符入(きっぷいり)(神事の打合せ)、くじ取式(山鉾巡行順位の決定)、神輿洗、稚児(ちご)社参などの儀がある。神輿洗は7月10日の夜、氏子総代世話方らが大松明(たいまつ)、提灯(ちょうちん)を振りかざして神輿を奉じ、四条大橋の中央で神職が榊(さかき)を鴨(かも)川に浸して神輿にそそぎ終わって還幸する。また11日ごろからは、山鉾の組立て(鉾建・山建)も始められ、毎夜町内の人々が集まって祇園囃子(ばやし)を奏する。16日の宵山には、家々の軒に神灯がともされ、青簾(あおすだれ)をかけ、由緒ありげな緞通(だんつう)を敷き、屏風(びょうぶ)を巡らしてその華麗さを競うことから、屏風祭の俗称さえある。鉾と山にも提灯が吊るされて、いっそうの美観である。この宵は遠近から集まった群衆で埋まり、祭りは最高潮に達する。
翌17日には、前祭(さきまつり)が行われる。午前中は山鉾巡行で、長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に23基の山鉾がくじで定められた順序に従い、祇園囃子ではやしながら四条烏丸(からすま)から四条通、河原町通、御池通を巡り、新町御池にて解散、帰町する。途中、四条堺(さかい)町でくじ改めが行われる。午後は夕刻より3基の神輿が氏子区内を巡行し、四条京極の御旅所(おたびしょ)に渡御する。山鉾巡行の長刀鉾、函谷(かんこ)鉾、放下(ほうか)鉾、岩戸(いわと)山、船(ふね)鉾の五つは抽籤(ちゅうせん)によらず一定の順序がある。鉾は前記のほか鶏(にわとり)鉾、月(つき)鉾、菊水鉾、綾傘(あやがさ)鉾と、1985年の復活後、巡行には未参加だった四条傘鉾が1988年から巡行を再開し9基。山棚は岩戸山のほか占出(うらで)山、牛天神(うしてんじん)山(油天神(あぶらてんじん)山)、太子(たいし)山、白楽天(はくらくてん)山、伯牙(はくが)山、郭巨(かっきょ)山、山伏(やまぶし)山、霰(あられ)天神山、木賊(とくさ)山、芦刈(あしかり)山、孟宗(もうそう)山、保昌(ほうしょう)山、蟷螂(とうろう)山の全14基が巡行する。祇園囃子は往還の調べを異にし、また鉾と山それぞれで曲を別にする。鉾の上層には10歳くらいの男児1人が厚化粧し、頭に金冠を頂き、羯鼓(かっこ)を手にして上る。これを「鉾の稚児」という。
24日の後祭では、午前中に山鉾巡行が行われる。橋弁慶(はしべんけい)山を先頭に、巡行の順序が決まっている北観音(きたかんのん)山、南観音山、2014年(平成26)から復活した最後尾を行く大船(おおふな)鉾のほか、鯉(こい)山、役行者(えんのぎょうじゃ)山、黒主(くろぬし)山、八幡(はちまん)山、鈴鹿(すずか)山、浄妙(じょうみょう)山の10基(2022年に巡行復活予定の鷹山は、2019年から御神体のかわりに掛け軸を収めた唐櫃(からびつ)巡行を行っている)が烏丸御池を出発。前祭とは逆のコースを巡行する。そしてその巡行とほぼ同時に、花傘巡行がある。10余基の傘鉾を中心に、氏子団体が鷺舞(さぎまい)、田楽(でんがく)などを整え、本社から市役所、四条御旅所などを巡って、本社に還御する。本殿前でそれぞれ舞踊の奉納が行われる。
八坂神社の祇園祭は、祓(はら)いを中心とする夏祭りの形式の源流とされる。また祭事形式、祭囃子、山鉾の構造などの各面で、他の祭礼に与えた影響は大きい。
[菟田俊彦]
なお、2009年(平成21)「京都祇園祭の山鉾行事」としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に単独で登録されたが、2016年には日本各地の山車(だし)の巡行を中心とした祭礼行事33件をとりまとめた「山・鉾・屋台行事」の一つに含まれる形で、改めて登録された。
[編集部 2017年2月16日]
京都の祇園社(現,東山区八坂神社)および同社を勧請した地方の祭礼。京都の祇園祭は山鉾の巡行を中心とした盛大な祭礼として日本三大祭の一つに数えられ,また現存する山鉾29基すべてが国の重要民俗資料に指定されている。古くは祇園御霊会(ごりようえ)といい6月に行われていたが,現在は月遅れの7月に催される。祭礼はぼほ1ヵ月に及ぶが,その間,神社側で行う行事のほか,氏子の住む町(鉾町)が独自に行うものがかなりの部分を占め,町衆を主体とするこの祭礼の特色を示している。
祇園社の創始についても不明な部分があるが,その祭礼である御霊会の始まりも社伝では869年(貞観11)とするが,別に970年(天禄1)とする有力な史料もあるなど,明瞭を欠くところがある。いずれにせよ平安時代に流行した御霊信仰にもとづく祭礼として,白川,紫野,花園などとともに平安京周辺地域で行われていた御霊会の一つであったことは推測にかたくない。その実態が判明するのは10世紀最末期であり,大嘗会の標山(しめやま)に似せた作り物や散楽空車などが祭りをにぎわしたという。これらは今日の山鉾の原型を思わせる。平安時代から鎌倉時代にかけての祇園祭では風流を凝らした田楽が行粧(こうそう)の中心であって,この時代には熱狂した田楽衆が乱闘に及ぶことも多く,また印地打ちなどの荒っぽい競戯も行われ,流血の事件にまで発展することがあった。山鉾の巡行を軸に祭礼の枠組みが決まるのは南北朝時代以降のことであり,室町時代には祇園社の氏子である下京町衆の富と団結を示す祭礼として隆盛におもむいた。現在では山鉾の題材は固定しているが,当初は毎年,町の寄合で囃子物(はやしもの)(仮装した踊り)とともに山鉾の趣向がくふうされていたようすが狂言に描写されている。山鉾の巡行は応仁の乱でいったん中絶するがのち復興,南蛮文化の流入にともない山鉾の装飾はいっそう豪華になり,江戸時代を通じてたびたびの大火にあい,また近代以後さまざまな改変が加えられたが,今日に盛観を伝えている。
なお室町時代以降,各地の大名が京都をまねた町作りを行い,いわゆる〈小京都〉の出現をみるが,その際,京都のシンボルとして祇園社が勧請され,それにともなって祇園祭の様相も導入される場合が多く,京都の祇園祭の地方都市への伝播が進んだ。ことにその中心をなす山鉾は地方都市の祭礼に大きな影響を与え,祇園社勧請の有無を問わず,山車(だし)のでる祭りの形態を全国に普及させることとなった。また今日,山口,津和野(島根県)に伝えられる鷺舞は京都祇園会に演じられていた囃子物の一つが伝播した例である。
→祇園信仰
執筆者:守屋 毅
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(高野朋美 フリーライター / 2009年)
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祇園会・祇園御霊会(ごりょうえ)とも。京都市東山区の祇園社(八坂神社)の祭。もとは旧暦6月14日に行われたが,現在は7月。869年(貞観11)疫病の退散を願い,66本の矛をたてて御霊会を行ったことが起源とされるが,970年(天禄元)創始説もある。7月17日(前祭)に山鉾(やまぼこ)巡行と神幸祭,24日(後祭)に山鉾巡行と還幸祭が行われる。室町時代から作山がみられ,京の町々を単位とする鉾がみられた。応仁・文明の乱で衰退したが,京都町衆により復興されて山鉾は豪華になり,祭は住民結合を維持・強化する場となった。神輿は3基で四条の御旅所へむかうが,古くは大政所井などを巡っていた。鶏鉾・函谷(かんこ)鉾・鯉山は重文。
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…1333年(元弘3)の《内蔵寮領等目録》によると,上洛の際内蔵寮に〈蛤(はまぐり)一鉢〉を献上している。また室町初期より京都祇園社大宮の駕輿丁(かよちよう)となり,祇園祭の際には数日間京都にあってハマグリおよび生魚を売る権利を与えられていたので〈今宮の蛤売〉などといわれた。91年(元中8∥明徳2)淀魚市の商人と販売権のことで争論を起こしているが,淀の商人が塩物を卸売するのに対し,彼らはエビ,カサメ(カニの一種),貝など生鮮物のうち比較的遠隔地に運べるものを京都の問屋に卸す権利を持っていたが,祇園祭以外には京都での直売は許されていなかった。…
…この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。京都の祇園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈祇園御霊会〉(略して祇園会)であって,八坂神社(祇園社)の社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。…
…柳田国男のいう〈見せる祭り〉を構成する中心的な装置となっている。京都祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾は,その代表的なものである。ほかに,だんじり,曳山(ひきやま),山笠(やまがさ),太鼓台(たいこだい)など,時代や地方によって名称や形態は多様である。…
…現在も岩手県平泉町毛越寺延年や,山形県櫛引町の黒川能に《大地踏》の稚児舞が残る。神事に参加する稚児は多く,京都祇園祭の長刀鉾に乗る稚児が腹に羯鼓(かつこ)をつけるのは,中世に流行した羯鼓を打って舞う稚児芸能のなごりである。そのほか愛知県山間部の花祭や新潟県弥彦神社の天犬(あまいぬ)舞など,稚児による舞は各地の民俗芸能に残る。…
…鎌倉時代から江戸時代にかけて,京都の清水坂,建仁寺のあたりに集住した〈賤民〉の一種。本来の名称は〈犬神人(いぬじにん∥いぬじんにん)〉といい,祇園社(ぎおんしや)(八坂神社)に隷属して,最下級の神人(じにん)として境内地・墓所などの清掃や祇園御霊会(ごりようえ)(祇園祭)の神幸の警護,神幸路の清めなどを主要な任務にするとともに,とくに中世には比叡山延暦寺の末社であった祇園社の軍事的・警察的組織をなして縦横に活躍した。また,京都での葬礼に関する権益を保持して布施を得たことも知られている。…
…これはまず,八坂に天神がまつられた後,その地に祇園精舎になぞらえた観慶寺(俗称,祇園寺)が建立され,守護神である牛頭天王も勧請された。八坂神社の行疫神的機能は,京都が大都市的性格を帯びるに及んで,さらに強まり,牛頭天王をまつる祇園祭が盛大となり,夏祭として定着した。夏祭の原形は,水際から悪霊を祓い流すところにあり,水神祭をかねている事例が多い。…
…以後,風流の芸態は祭礼などに引き出される作り物を中心とした山車や鉾(ほこ)など,〈作り物風流〉と,盆などに行われる踊りを主体とした〈風流踊〉に分化した。前者の代表は祇園会(祇園祭)に京の町衆によって引かれる山鉾であるが,現在の趣向は,応仁の乱後の1496年(明応5)復興以降の趣向が定着したものである。 中世の大きな美意識の潮流ともいえる風流の精神は,日常生活はもとより,同時代の芸能である延年(えんねん)や能・狂言にも影響を与えた。…
※「祇園祭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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