藤原忠平(読み)ふじわらのただひら

精選版 日本国語大辞典 「藤原忠平」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ただひら【藤原忠平】

平安中期の公卿。小一条殿と号す。摂政・関白。基経の子。母は人康(さねやす)親王の娘。朱雀天皇即位によって摂政、以後太政大臣、関白。温厚で勤勉なため人望があった。「延喜格式」を完成。死後、信濃公に封ぜられ、貞信公の諡号(しごう)を賜わる。有職故実にも明るく、著に「貞信公教命」、日記「貞信公記」がある。元慶四~天暦三年(八八〇‐九四九

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デジタル大辞泉 「藤原忠平」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ただひら〔ふぢはら‐〕【藤原忠平】

[880~949]平安中期の公卿。基経の子。諡号しごう、貞信公。兄時平の死後、摂政、のちに太政大臣・関白となる。時平の遺業「延喜格式」を完成。日記「貞信公記」がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原忠平」の意味・わかりやすい解説

藤原忠平 (ふじわらのただひら)
生没年:880-949(元慶4-天暦3)

平安中期の廷臣,関白基経の四男。900年(昌泰3)21歳で参議となったが叔父清経に譲り,908年(延喜8)に再任,翌年兄左大臣時平が没すると,兄仲平を越えて権中納言,氏長者となる。911年大納言,913年右大臣源光が没すると翌年右大臣となり,政権の首座に着いた。924年(延長2)左大臣。927年《延喜式》を完成し奏進した。930年醍醐天皇は皇子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し没するが,彼は新帝の摂政となる。936年(承平6)太政大臣。翌年天皇が元服したので摂政を辞したが許されず,941年(天慶4)関白となる。946年天皇は弟成明親王(村上天皇)に譲位,彼は引き続き関白の詔をうけ,やがて子の実頼・師輔が並んで左・右大臣となった。949年没。諡(おくりな)は貞信公。また彼の邸にちなみ小一条太政大臣とよばれた。宇多上皇の信任厚く,その皇女源順子を室とした。彼が政権を掌握した背景には,上皇や彼の妹穏子(おんし)(醍醐后,朱雀・村上母)の後援があったと考えられる。また菅原道真と親しく,道真の怨霊にたたられたといわれる時平一門とは対照的に,天神の加護を得たと伝えられる。その執政時代,ことに朱雀朝は承平・天慶の乱もあり深刻な世相であったが,彼の政治姿勢は消極的の感を免れない。しかし朝儀・故実に明るく,彼の説は子息らに継承され,後世の規範となった。日記《貞信公記》は907-948年(延喜7-天暦2)の抄本が伝わり,貴重な史料である。彼の口伝・教命を伝える《貞信公教命》は現存しない。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原忠平」の解説

藤原忠平

没年:天暦3.8.14(949.9.9)
生年:元慶4(880)
平安中期の公卿。小一条殿,五条殿と称す。摂関基経と人康親王の娘の3男であるが長兄時平の若死に(左大臣,39歳)が幸運をもたらした。延長8(930)年醍醐天皇が死去すると,妹穏子の生んだ朱雀天皇が8歳で即位,その摂政として政治を後見した。これにより摂関が40年ぶりに復活。また天皇元服後の天慶4(941)年,関白となったが,ここに元服を境にした摂政・関白の区別がはっきりした。天皇が朱雀から実弟の村上に代わっても関白となり,70歳で死ぬまで通算すれば20年間,摂関の地位にあった。公家の儀式,作法に通じ,子の実頼と師輔に伝授し,それぞれ小野宮流,九条流として結実している。百人一首の「をぐらやま峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」は宇多法皇に従い京の嵯峨に紅葉狩りにでかけたとき,法皇が子の醍醐天皇にも見せたいともらしたのを詠じたもの。晩年,承平・天慶の乱が起きると,平将門から「私君」と仰がれていることが『将門記』で知られる。自邸の小一条第で死去,みずからの創建になる京外東南の法性寺に葬られた。貞信公と諡され,その日記『貞信公記』は公卿日記として最も古く,摂関政治成立期の動向を伝える。<参考文献>村井康彦「藤原時平と忠平」(『歴史教育』14巻6号)

(朧谷寿)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原忠平」の意味・わかりやすい解説

藤原忠平
ふじわらのただひら
(880―949)

平安中期の公卿(くぎょう)。関白基経(もとつね)の子。母は人康(ひとやす)親王の女(むすめ)。909年(延喜9)兄の時平の没後、権中納言(ごんちゅうなごん)に進み氏長者(うじのちょうじゃ)となった。910年中納言、911年大納言、914年右大臣、924年(延長2)左大臣に任ぜられ、927年には『延喜式(えんぎしき)』を定めている。930年朱雀(すざく)天皇の即位によって摂政(せっしょう)に任ぜられ、932年(承平2)従(じゅ)一位に進み、936年には太政(だいじょう)大臣になった。その後、儀式による正しい公家(くげ)の作法を子実頼(さねより)・師輔(もろすけ)に伝えようとし、子2人はそれぞれ筆録した。師輔の筆録したものが『貞信(ていしん)公教命』として現存。941年(天慶4)関白となり、村上(むらかみ)天皇即位後も949年(天暦3)まで関白にあった。貞信公と諡(おくりな)され、日記を『貞信公記』という。天暦(てんりゃく)3年には七十賀が行われたが、同年8月14日薨去(こうきょ)。

[山中 裕]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原忠平」の解説

藤原忠平
ふじわらのただひら

880~949.8.14

小一条殿とも。10世紀前半の公卿。基経(もとつね)の四男。母は人康(さねやす)親王の女。同母兄に時平・仲平,同母妹に醍醐天皇の中宮穏子(おんし)。諡は貞信公。900年(昌泰3)参議となるが,辞退して叔父清経に譲る。908年(延喜8)還任(げんにん),翌年時平の死にともない従三位権中納言・氏長者(うじのちょうじゃ)となり,以後累進して914年右大臣。抜擢の背景には宇多法皇・穏子の影響が推測される。朱雀(すざく)・村上両天皇のもとでは摂政・関白・太政大臣を勤めた。70歳で病没。贈正一位,封信濃国。温厚な性格だったと伝えられる。忠平の時代は律令制の最終段階であるとともに,摂関の制度的成立,儀式や故実の集成など,摂関政治体制の成立期でもあった。日記「貞信公記」。

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百科事典マイペディア 「藤原忠平」の意味・わかりやすい解説

藤原忠平【ふじわらのただひら】

平安中期の高官。基経の子。諡号(しごう)は貞信公(ていしんこう)。兄時平の死後,氏の長者(うじのちょうじゃ)。醍醐天皇の信任厚く延喜(えんぎ)の治を補佐。941年−949年関白。《延喜式》を完成。日記《貞信公記》がある。
→関連項目九暦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原忠平」の意味・わかりやすい解説

藤原忠平
ふじわらのただひら

[生]元慶4(880).京都
[没]天暦3(949).8.14. 京都
平安時代中期の廷臣。別称,小一条殿。基経の4男。母は人康親王の娘。延喜9 (909) 年に長兄時平が死ぬと氏長者,同 14年右大臣となって朝廷の首座を占めた。延長2 (924) 年左大臣。同5年先に勅命によって時平が編纂を開始した『延喜格』『延喜式』を完成。同8年朱雀天皇の践祚とともに摂政,天慶4 (941) 年関白となったが,治績にみるべきものはない。貞信公と諡 (おくりな) された。日記『貞信公記』や『小野宮故実旧例』『貞信公教命』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原忠平」の解説

藤原忠平 ふじわらの-ただひら

880-949 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
元慶(がんぎょう)4年生まれ。藤原基経(もとつね)の4男。母は人康(さねやす)親王の王女。延喜(えんぎ)9年(909)兄時平の死で氏長者となり,14年右大臣として政権をにぎる。のち左大臣,太政大臣。朱雀(すざく)天皇の摂政,関白,村上天皇の関白をつとめ,摂関政治の基礎をきずいた。天暦(てんりゃく)3年8月14日死去。70歳。贈正一位。小一条殿と称された。諡(おくりな)は貞信公。日記に「貞信公記」。
【格言など】小倉山峰のもみぢ葉心あらば今一度(ひとたび)のみゆき待たなむ(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原忠平」の解説

藤原忠平
ふじわらのただひら

880〜949
平安前期の公卿
関白基経の4男。909年兄時平の死後,氏長者となった。930年朱雀 (すざく) 天皇の摂政,936年太政大臣,さらに941年関白となった。忠平政権下に承平・天慶の乱がおこった。『延喜格式』を完成。温厚勤勉な性格で人望があった。日記に『貞信公記』。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原忠平の言及

【摂関政治】より

…平安時代,藤原氏出身の摂政関白が天皇に代わって,あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をいう。 推古天皇のとき聖徳太子が,また斉明天皇のとき中大兄皇子が摂政となって執政したといわれるが,人臣にして摂政となったのは藤原良房に始まり,関白はその養嗣子基経に始まる。…

【貞信公記】より

…太政大臣藤原忠平の日記。書名は忠平の諡号(しごう)にもとづく。…

※「藤原忠平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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