邯鄲(中国)(読み)かんたん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「邯鄲(中国)」の意味・わかりやすい解説

邯鄲(中国)
かんたん / ハンタン

中国、河北(かほく)省南部の地級市。京広線に沿う工業都市である。6市轄区、11県を管轄し、1県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。人口1029万5000(2014)。周囲の平野は綿花や小麦、トウモロコシの一大生産地帯で、かつては農村地帯からの農産物の集散を中心とする商業都市であったが、南西の峰峰(ほうほう)には炭田があり、中華人民共和国成立後は製鉄、機械などの重工業が発達して大きな工業都市となった。河北省と山西(さんせい)、河南(かなん)、山東(さんとう)3省の境界に位置する交通の要所であり、京広高速鉄道が通るほか、邯長線(邯鄲長治(ちょうち))、邯済線(邯鄲―済南(さいなん))、邯黄線(邯鄲―黄驊(こうか))の起点となっている。

[秋山元秀・編集部 2017年3月21日]

歴史

太行(たいこう)山脈の東麓、黄河(こうが)のすぐ北にあり、先史時代から集落の開けた所であった。すぐ南の河南省安陽(あんよう)には殷墟(いんきょ)がある。春秋時代には衛の属国であったが、戦国時代に趙(ちょう)はここに都を置き、それ以来漢代に至るまで華北での経済、文化の中心として栄えた。付近で産する鉱石を利用して鉄の冶金を行い、王侯に匹敵する富をなした者もあり、また高級な遊女の存在でも有名であった(『史記』貨殖列伝)。秦(しん)は趙を滅ぼして郡と県を置いたが、その重要性は衰えず、漢になっても王族を派遣して治めたほどであった。しかし後漢(ごかん)以後南方の開発が進むにつれ、経済の中心としての地位を失い、一地方都市にすぎない存在となった。1952年市が設けられ、1956年峰峰市を合併して今日に至る。

 古代に繁栄した邯鄲は文学でも取り上げられることが多く、田舎(いなか)者が邯鄲へ行ってそこの人の歩き方をまねているうちに、自分の歩き方を忘れて這(は)って帰ったという故事(邯鄲学歩(かんたんがくほ)、『荘子』秋水篇(へん))、邯鄲の市で道士の枕を借りて寝た盧生(ろせい)が、一生のすべてを夢にみたが、目が覚めると眼前の黄粱(コウリャン)(粟(あわ))がまだ煮えてもいなかったという故事(邯鄲の夢、あるいは黄粱夢(こうりょうむ)、『枕中記(ちんちゅうき)』)は有名で、いずれも当時の邯鄲の経済、文化の繁栄を物語る。またこの故事にちなむ学歩橋、黄粱夢(呂翁祠(ろおうし))という旧跡もある。このほか趙時代の故城跡、宮殿跡といわれる叢台(そうだい)などの名勝もある。峰峰には南北朝時代から建設が始められた響堂山石窟(きょうどうさんせっくつ)があり、石仏、絵画など仏教芸術の宝庫である。

 1945年10~11月、華北の解放区をめぐる国民党軍と人民解放軍との戦闘は、邯鄲の戦役として知られる。

[秋山元秀 2017年3月21日]

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