フランスの数学者。オーセルの仕立屋の子に生まれ、家は貧しく、9歳までに両親を失い、孤児になり、オーセル寺院のオルガン奏者に引き取られた。のちに修道院が管理していたオーセル陸軍学校の予備校に入学、ここで数学に興味をもち、以後、数学の勉強に打ち込みだした。彼は将校を希望していたが孤児はなれず、そこで修道院の見習い修道士になった。そのころからフランス大革命が始まり、フーリエは修道院の仕事を辞め、1789年パリに出た。このとき彼は、自分の研究をまとめた数値方程式の解法についての論文をパリ科学アカデミーに提出したが、革命のため論文は公表されなかった。革命に共鳴し、ロベスピエールの下に行ったが受け入れられず、しかたなく故郷に帰ったが、ここで短期間、逮捕された。
その後、革命政府が高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)を設立し、学生募集をした。フーリエはこれに協力し、彼自身も新しい学校で学ぼうとしたが、学校は彼を助手に任命した。この学校は半年間ほどで閉校となり、新たに理工科大学校(エコール・ポリテクニク)が設立され、彼はこの学校の助手となり、講義も行ったが、その講義のすばらしさは、今日まで語り伝えられている。
1798年フーリエはモンジュとともにナポレオンのエジプト遠征に従い、エジプトにできたアカデミーの会員になり、エジプト研究とともに数学についても研究し、1801年フランスに戻った。1802年にはイタリア近くのイゼール県の知事に任命された。やがてナポレオンが没落すると、彼は新しい政府に忠誠を誓い、知事の仕事を継続するが、ナポレオンがふたたびフランスに戻るとナポレオン政府につき、1815年5月パリに戻った。この年(1815)の10月ナポレオンはセント・ヘレナ島に流された。1816年パリ科学アカデミーはフーリエを会員に選んだが、ルイ18世はフーリエの無節操ぶりをみて会員にすることを拒否、翌1817年にようやく認めた。このときからフーリエはアカデミーの仕事、研究、後進の指導にあたり、1826年アカデミー・フランセーズの会員になった。
フーリエは知事を務めていた1807年に「熱の解析的理論について」の論文をアカデミーに送った。1811年には熱の伝導についての研究でアカデミー賞を受けた。これらの研究は1822年に『熱の解析的理論』として刊行された。フーリエは偏微分方程式を解く変数分離法を詳しく研究し、ここから任意関数の三角級数展開の思想、さらに今日のフーリエ級数の概念へと進んだ。続いてこれらの級数の連続な場合への移行によって、今日のフーリエ積分の概念に達した。一方、数値方程式の解法についても研究し、著書を出版した。フーリエの仕事は、彼の友人で、彼の下で研究していたスチュルムとフーリエの友人でドイツからきていたディリクレによって受け継がれ、発展させられた。
[井関清志]
フランスの空想的社会主義者。裕福なラシャ商人の息子としてブザンソンに生まれる。7歳のとき商業が人を欺く術(すべ)であることを知り、商業への憎悪を固めた。しかし破産したため20歳でリヨンの商店の外交員となった。1798年パリのリンゴの価格がルーアン地方に比べ異常に高いことを知り、「産業機構の根本的混乱」に気づく。4年にわたる研究で彼独自の理論を築く。以後彼は、几帳面(きちょうめん)な使用人であると同時に人類の救済者たることを確信した誇大妄想家となる。1800年以後非公認仲買人などをしながら、最初の著作『四運動の理論』(1808)や主著『家庭的農業的協同社会論』2巻(1822)を刊行。エンゲルスは、彼を評して、「現存の社会関係を非常に鋭く、機知と諧謔(かいぎゃく)をもって批判した」(「フーリエの商業論の一断片」)と書いた。フーリエは、所有の細分化と商業的寄生とに近代の「産業的無政府性」の原因を帰した。彼は「商業の略奪行為」を告発する。それは、計画破産、買占め、投機、商人の過剰存在のことである。近代社会にあっては、細分と浪費とにより「協同社会」の4分の1の生産力しかなく、しかも貧困が豊富そのものから生まれる。フーリエは、細分化した近代産業では「いっさいが悪循環である」とみなす。このような体制は力によってしか維持されない。国家がその主要な手段で、道徳がそれに介入し情念を「閉塞(へいそく)」する。
フーリエは神が欲した自然秩序を追求する。精神界のそれは情念引力とよばれる。「文明」を「産業的封建制」にした競争的闘争の制度を、情念引力に基づく協同社会に変えること、これが彼の目的であった。1825年ころ財政難に陥った彼はパリを去って再度リヨンで店員となる。このころコンシデラン、ペラランCharles Pellarin(1804―1883)などの弟子が集まってきたが、彼に必要なのはファランステールと称せられる理想社会の設立基金を提供する金持ちであった。
[古賀英三郎 2015年6月17日]
フランスの哲学者,社会・経済思想家。ブザンソン生れ。富裕な商家の出であったが,1793年に破産して以来,行商人,店員などをしながら著述活動に入る。1808年に最初の大著《四運動および一般運命の理論》を世に問い,尖鋭な社会・経済批判,壮大かつ奇抜な宇宙・社会進化論,斬新・精密な推察にもとづくユートピア的世界の構想等々を展開するが,黙殺される。しかし,〈ファランステールphalanstère〉と称する共同体住居の設置による新社会構築の計画をあきらめることなく,22年には最大の著作《家庭・農業組合概論》を,29年には《産業・組合新世界》を発表し,篤志ある資産家たちへの空しい呼びかけを繰り返す。晩年にはP.V.コンシデランら弟子を自称する人々があらわれ,〈フーリエ主義Fouriérisme〉運動が創始されるが,フーリエ自身は彼らにも自説が十分に理解されていないことを自覚しつつ,不遇のままパリで没した。以後この運動は欧米各地で断続的に試みられ,ある程度の成果をあげる。ネルバルやボードレールら文学者たちへの影響も無視しがたい。
社会主義,共産主義を予告する側面をもつフーリエの思想は,マルクスによって高く評価されたが,エンゲルスはこれをサン・シモンやR.オーエンと並ぶ〈空想的社会主義〉の一例とみなし,この位置づけが20世紀半ばまで通説となっていた。しかし,シュルレアリスムの指導者A.ブルトンによる再評価を経て,いわゆる〈五月革命〉(1968)後の全集の復刊,とくに弟子たちによって危険視され隠匿されていた大著《愛の新世界》の初版刊行(1967)を機に,フーリエの思想はようやくその全貌を明らかにしはじめた。〈アナロジー〉および〈情念引力〉の理論にもとづくその精緻きわまる宇宙論・歴史観,また労働を快楽に変える革命的な構想,そしてなによりも,比較を絶するそのユートピア的な言語体系の全体は,いわゆる社会主義思想史や経済学説史の範囲を超えて,現代思想の各分野に新たな影響を及ぼしつつある。したがって多くの点でけたはずれであったこの予言的思想の持主の位置づけは,まだ緒についたばかりというべきであろう。日本でもすでに初期アナーキズム(大杉栄ら)への若干の影響が見られたが,萌芽の状態にとどまった。
執筆者:巖谷 國士
フランスの数学者。中部フランスのオーセールに生まれ,幼くして孤児となり,陸軍の学校に学ぶ。1795年新設されたエコール・ポリテクニクで教え,98年G.モンジュとともにナポレオンのエジプト遠征に従軍する。1801年彼の行政的才能を認めたナポレオンからイゼール県知事に任命され,08年男爵を授けられるが,そのころから熱伝導論の研究を始めた。ナポレオン失脚後一時失職するが,17年アカデミー・デ・シアンス会員に選ばれ,22年同院常任幹事となる。27年にはアカデミー・フランセーズ会員となる。革命期のフランスに起伏の多い生涯を送ったが,晩年は学問の研究に専念することができた。熱伝導論の研究に関連してフーリエ級数やフーリエ積分を発見し,それがのちに解析学のまったく新しい分野に発展した。彼は物理的な考察からこの発見が導かれたので“自然の深い研究こそ数学上の発見のもっとも豊かな源泉である”ことを信条としていた。
執筆者:弥永 昌吉
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1772~1837
フランスの空想的社会主義者。商業や株式取引に関する職業に従事したため,その体験にもとづいた資本主義批判を詳細に展開し,ファランジュと呼ぶ協同組合的ユートピアを構想し実現しようとした。
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…女性の状態を歴史的時間のなかで検証しようとする発想は,19世紀の産物であった。フランスの空想的社会主義者フーリエは《四運動の理論》(1808)で,社会の進歩と女性の解放は比例するといい,イギリスの功利主義者ジョン・スチュアート・ミルは《女性の隷従》(1869)で,奴隷制から自由な社会へという人類史の延長線上に女性解放をおこうとした。《恋愛と結婚》(1903)を書いたスウェーデンのE.ケイは,歴史は恋愛と結婚の自由に向かって進んできたとする立場から女性解放の方向性を示した。…
… 第3は,党派的なユートピアであるが,かつて宗教的運動の中で主張されたような孤絶したユートピア構想とは異なった,新しい開放性をもっている。党派のユートピアは,理論上の要請であるとともに行動のプランでもあるが,19世紀については,とりわけイギリスのR.オーエンとフランスのサン・シモン,C.フーリエらの初期社会主義運動が注目される。オーエンは,協同組合を主体とする共産的村落を構想し,1825年からアメリカに〈ニューハーモニーNew Harmony〉を建設して,この理想を現実に移そうと試みた。…
…続いてG.F.B.リーマンは,積分の定義を反省してそれを一般にした論文を発表し(1854),さらにG.カントルは無理数論ならびに集合論を創始した(1872)。 これよりさき,J.B.J.フーリエは熱伝導に関する有名な論文(1812)を書き,すべての関数はいわゆるフーリエ級数で表されることを論じたが,これが解析学に及ぼした影響は大きい。すなわち,ディリクレが関数の現代的な定義を確立したのは彼のフーリエ級数に関する二つの論文(1829,37)においてであり,また,アーベルの一様収束概念の発見,リーマンによる積分の一般的な定義,カントルの無理数論,集合論の創始も,フーリエ級数が一つの誘因であったと思われる。…
… 解析学方面では,上述のような基礎概念の確立もこの時代の特徴的な成果であるが,18世紀以来の古典解析の進展もある。J.B.J.フーリエは熱伝導の理論に関連し,フーリエ級数を導入したが,どのような関数がその級数で表現されるかの問題は,関数概念についての深刻な反省を促した。これは応用数学上の問題から純粋数学の本質的な発展がもたらされた好例として挙げられる。…
※「フーリエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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