エリコ(読み)えりこ(英語表記)Jericho

翻訳|Jericho

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エリコ」の意味・わかりやすい解説

エリコ
Jericho

ジェリコとも読む。アラビア語ではアリーハー Arīḥā。エルサレム北東約 20km,死海の北側でヨルダン渓谷西側,海面下 251mに位置するオアシスの村。古代のエリコは現在の村とは位置が異なり,現在の村の西の丘にあるタルアッスルターンと呼ばれる遺跡丘 (→エリコ遺跡 ) がそれである。この遺跡は 1930~36年に J.ガースタング,52~58年に K.ケニヨンによって発掘された。最下層には中石器時代 (前 9000頃) の狩猟民の集落痕跡があり,次の前 8000年頃から新石器時代の「町」が現れる。この土着社会に対して,前 7000年頃北方から移住民が来て方形多室プランの住居を築いた。その後約 1000年の断絶があり,前 5000年頃北方から再び侵入民が来た。彼らは比較的原始的な段階にあった遊牧民で,エリコに初めて土器の使用をもたらした。前 3000年頃再び城壁に囲まれた大きな集落が発生する。これが青銅器時代エリコの都市文明の始りである。前 2300年頃全オリエントにわたる遊牧民アモリ人の大移動の一環として,エリコにも郊外にその痕跡が現れ,都市文明は一時中断するが,前 1900年頃カナン人のシリアパレスチナ定着とともに再び都市が栄えた。これが旧約聖書の族長時代のエリコである。この都市は前 14世紀後半に破壊され,イスラエル人のカナン征服の当時は廃虚であった。しかし前7世紀には町が復興し,前 586年のバビロン捕囚まで存続した。これ以後遺跡丘は放棄され,前1世紀にはその近くにヘロデ大王によって冬の離宮が建設され,ローマ帝政期にも町として栄えた。イスラム初期にはカリフのヒシャムの離宮が建てられたが,十字軍時代には現在の村と同じ場所に集落が移った。オスマン帝国時代からイギリスの信託統治時代にかけても小規模の町が存続したが,1949年ヨルダン領に組込まれ,67年の六日戦争でイスラエルが占領。 93年8月のパレスチナ解放戦線 PLOとイスラエルとの暫定自治合意により,94年4月イスラエル軍は撤退,パレスチナ人による限定的な自治が認められた。人口1万 2528 (1987推計) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エリコ」の意味・わかりやすい解説

エリコ
えりこ
Jericho

ヨルダン川西岸、死海の北方8キロメートル、エルサレムからは東北東22.5キロメートル、海面下250メートルにある歴史的にももっとも古くから定着された都市。アラビア語ではアリーハーArihāという。もとヨルダン領で、現在はイスラエル占領下のパレスチナ自治区にあるオアシス都市で、オレンジやバナナなどの果実が栽培される。遺跡テル・アル・スルタンはオアシスの西に位置する。遺跡は20世紀初頭から発掘され、ナトゥーフ文化以降の遺構が発見されている。ヨルダン川の河谷を扼(やく)する要地にあるため、古くから連続して人々が居住した。『旧約聖書』によれば、紀元前14世紀ごろヨシュアに率いられたイスラエル人により攻撃され、占領されたとある。イスラエル人はこの地を拠点として、エルサレムに入り王国を建設したが、発掘された都市や城壁には何度も破壊された跡があることから、幾たびも外敵の侵入、攻撃を受けたことが明らかである。前6世紀にバビロニアがゼデキア王の軍隊を破り、ユダヤ王国を滅ぼしたのもここであった。前40年ローマからユダヤ王の地位を与えられたヘロデ大王は、南方3キロメートルの所に劇場、城塞(じょうさい)をつくって冬の避寒地としたが、この都市もアラブ人やペルシア人に破壊された。現在の町は十字軍時代に建設された第三の町の跡につくられたものである。

[糸賀昌昭]

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