ドイツの細菌学者、化学療法の先駆者。シレジアのシュトレーレンに生まれ、ブレスラウその他の大学で医学を修めた。エールリヒは、修学中から各種色素が細胞研究に利用されていることに強い関心をもっていた。そして固定された細胞と生体染色の成績から色素の酸化と還元、とくに酸素との関係に着目し、アニリン色素による染色によって各種細胞顆粒(かりゅう)の相違が認められるという、今日、白血球分析に使われている方法の基礎を発表した。1882年3月24日のコッホの結核菌発見はエールリヒに大きな刺激となり、結核菌の抗酸性染色の研究を始め、同年、染色法を創案した。1883年には腸チフス患者の尿のジアゾ反応を発見した。1890年コッホの伝染病研究所に入るが、軽い結核にかかり、3年間エジプトに転地療養して、伝染病研究所に復帰、ジフテリア毒素と抗毒素に関する研究をしていたベーリングを助け、毒素と抗毒素の定量法を確立した。また、この時期に抗体産生の機序から始めて、各種の抗原抗体反応の本態を説明するために、側鎖説という巧妙な仮説を提起、免疫学はこの側鎖説をめぐって発展する。
1896~1899年、国立血清研究所所長を務め、1899年にはフランクフルト・アム・マインの国立実験治療研究所所長となり、同時にゲオルグ・スパイエル研究所所長を兼ねた。彼のもとには世界各地から多くの俊秀が集まり、色素療法から化学療法への画期的な飛躍が生まれることになる。彼は側鎖説の研究、拡大から、微生物とは結合してその微生物を殺すが、生体とは結合しない無害な化学物質の存在を確信した。そしてそのために初めは色素について調べ、志賀潔(きよし)助手によって、ウマのカデラ病トリパノソーマに有効なトリパンレッドと名づけたベンチジングループの赤い色素を、続いて青い色素トリパンブルーをみつけたが、この色素療法は発展しなかった。ついでヒ素化合物アトネシールが抗スピロヘータ剤であることに着目し、その化学構造を明らかにして、その誘導体をつくって発展させ、第606番目にジアミド・ジオキシ・アルゼノベンジン(市販名はサルバルサンまたは606号)を発見、これによってヒトの梅毒治療に成功した。この発明権についてエールリヒは、合成を担当したベルトハイムAlfred Bertheim(1879―1914)と、精密な動物実験を担当した秦佐八郎(はたさはちろう)との3人が共有するものだ、といったと伝えられる。
1908年、免疫に関する業績によりノーベル医学生理学賞を受け、1910年イギリスのロイヤル・ソサイエティー会員、1914年フランクフルト大学実験治療学教授となった。
[藤野恒三郎]
オーストリアの法学者。ウィーン大学で法学を修め,郷里のチェルノウィツ大学(現在はウクライナのチェルノフツィ)でローマ法を講じた。工業化の進展と労働者階級の台頭を背景としたヨーロッパ法体制の変動期に,自由法論の主唱者の一人として活躍した。起こりうるあらゆる法律問題に対する解答は,国家が定立した実定法規において与えられているか,そこから論理的に導き出されうるとする国家的法律観,概念法学的法実証主義の考え方に対して,実定法規には欠缺(けんけつ)(法の欠缺)があることは避け難いこと,その場合に実定法規からの演繹的推論に頼ることは裁判官の恣意(しい)をおおいかくす結果となることを示し,むしろ社会の中で行われている〈生ける法〉を拠りどころとした法創造が要求されることを説いた。また,そうした創造的任務に適した裁判官養成を求め,官僚的裁判官制度を批判した。後のリアリズム法学の司法決定理論の先駆といえる。〈法の発展の重心は社会にある〉というテーゼに基づく彼の一般的法理論は《法社会学の基礎づけ》(1913)に集約されており,これによりM.ウェーバーと並ぶ法社会学の創始者とされる。彼の考え方は,日本では大正デモクラシー期における末弘厳太郎の市民法学に生かされ,第2次大戦後の法社会学において,近代的な実定法の貫徹を妨げる旧来の慣行の調査研究を導く役割を果たした。
執筆者:六本 佳平
ドイツの細菌学者。ストラスブール大学などで医学を学んだのち,ベルリン大学で実験病理学の研究に従事し,1890年,R.コッホの伝染病研究所に入る。その後,96年血清研究所長,99年国立実験治療研究所長を歴任。この間,メチレンブルーによる生体染色や結核菌の染色法などを開発して業績をあげ,さらに免疫現象を研究して,その抗原抗体反応を理論づけた側鎖説を発表した。この側鎖説は〈エールリヒの側鎖説〉と呼ばれ,この業績によって,1908年,E.メチニコフとともにノーベル生理・医学賞が授けられた。一方,病原体に有効な化学物質の発見にも力をいれ,1904年に志賀潔とともにトリパノソーマに有効なトリパン・レッドを,10年に秦佐八郎とともに梅毒の病原体トレポネマに有効なサルバルサンを発見し,化学療法の創始者となった。このほか,ジフテリアの血清療法を始めるなど業績は多い。
執筆者:日野 秀逸
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ドイツの細菌学者.現代免疫学・血液学・化学療法の開拓者.ブレスラウ大学,シュトラスブルク大学,ライプチヒ大学で医学を修める.1878年よりベルリン大学臨床助手を経て,1884年ベルリンのシャリテ病院教授となる.1890年伝染病研究所でR. Kochの助手となり,1896年ステーグリッツの血清学研究所所長,1899年よりフランクフルトの国立実験治療研究所所長となる.血液の組織学的研究から進んで,生体組織と色素の親和性に着目し,細菌や生きた神経組織の染色法,マスト細胞の発見,ジフテリアの毒素・血清療法・血液検定法の研究などの業績をあげた.また,抗体抗原反応の化学的説明として側鎖説を提唱し(1900年),免疫学の基礎を築いた.さらに化学療法研究に進み,1904年志賀潔とともにトリパンロート(トリパンレッド)がトリパノゾーマ感染症に有効であることを発見した.また,1910年秦佐八郎とともに梅毒の特効薬サルバルサンを発見した.免疫に関する研究で,1908年I.I. Mechnikovとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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…そこに新しい時代潮流と呼応して起こった法曹の運動が自由法論である。カントロビチ,エールリヒ,フックスErnst Fuchsらが中心になったが,彼らは教会組織に反抗した〈自由宗教〉〈自由思想〉の運動とも連動しており,たんに法曹の中だけの運動ではなかった。とくにフックスはラディカルな運動の先頭をきり,法学教育の改革を唱えた。…
… ついで資本主義の高度な発展により,法と社会とのギャップが顕在化したとき,自由法論を経由して,法社会学が,法社会学という名の下に自覚的な発展を始めた。第1次大戦前後に現れたE.エールリヒの《法社会学の基礎づけ》(1913)やM.ウェーバーの〈法社会学〉(1921年の《経済と社会》の第7章)がその例である。 さらに1929年の世界恐慌以後,資本主義社会が高度に組織化されるに至ると,社会統制手段としての法の有効性を追求するために,システム分析の方法に基づく法的メカニズムの総体的把握が試みられるに至った。…
…〈法典論争〉をきっかけとして書き下ろされた《立法および法学に対する現代の使命》ならびに学派の名称がそこから由来することになった《歴史法学雑誌》第1巻の〈この雑誌の目的について〉なる論文(いわゆる〈綱領論文〉)でこの点を見てみると,前者においては,法は言語と同様に〈民族共同の確信(民族精神)〉の発露であり,その発展は民族の歴史的発展と並行するといった基本的見解が見られ,後者においては,歴史は単なる事例集ではなく,我々自身の状況の真の認識に到達するための唯一の途であり,〈法の素材は国民の全過去によって与えられており,……国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される〉といった主張が見られる。M.ウェーバーとならぶ法の歴史社会学の確立者であるE.エールリヒにならっていえば,この歴史法学の〈民族精神〉を〈社会〉と読み替え,その〈歴史的見解〉を額面どおり受け取れば,そこには〈真の法学〉たる法の歴史社会学の端緒が存在しているといえるほどなのである。 だがそうした高い可能性を秘めつつも,歴史法学はその〈綱領〉を完全には実現しえなかった。…
…このような治療血清やワクチンは,細菌学の技法を用いているとはいえ,基本的にはE.ジェンナーの牛痘接種による痘瘡(とうそう)予防と同じく,生体自身がもっている免疫能力を利用したものである。ところが同じくコッホの門人であったP.エールリヒは,細菌には染料によって着色されやすいものとそうでないもののあることから,細菌のみに作用して動物や人体には影響のない物質を発見できる理論的可能性に着目し,秦佐八郎とともに梅毒の病原体にのみ特異的に結合し,その発育を阻止する物質サルバルサンを開発,化学療法の基礎をきずいた(1909)。このような開発研究は,アイデアはともかくとして,実験が多大の資材や人員を要し,いかに政府によって設立され,経常費を支出されている研究室でも,その限界を上まわる。…
…化学療法とは,創始者P.エールリヒによれば,化学物質を用いて人体や動物体内に侵入した病原体を殺す原因療法と定義される。そして,そのような物質(化学療法剤)は,人体には無害で病原体にのみ選択的に毒性を発揮するものであり,消毒薬のように,いずれにも有害であるため,体外での使用しかできない薬剤とは根本的に異なる。…
…1910年に秦佐八郎とP.エールリヒらが開発した梅毒治療薬で,化学療法剤の第1号。有機ヒ素化合物で,化学名は3,3′‐ジアミノ‐4,4′‐ジヒドロオキシアルセノベンゼンの塩酸塩。…
…P.エールリヒによって1900年ころ提唱された免疫理論。彼は細胞表面に特定の抗原と反応できる側鎖の存在を仮定し,外来の抗原(彼はその当時扱っていたジフテリアなどの細菌毒素を念頭においていた)が側鎖と反応すると細胞は破壊され,過剰の側鎖が血中に放出されると考えた。…
…梅毒が他の性病と区別されるようになったのは,1905年にF.R.シャウディンとホフマンErich Hoffmann(1868‐1959)により梅毒トレポネマが発見されて以後のことである(はじめスピロヘータ・パリダと命名,のちにトレポネマ・パリズムと改称)。1910年P.エールリヒ,秦佐八郎によって有機ヒ素剤であるサルバルサンが開発され,初めての化学療法剤として梅毒の治療に用いられたが,治療効果は不十分であり,副作用が多発した。40年代以降は,梅毒に対してはペニシリンを中心とする抗生物質による治療が行われるようになった。…
※「エールリヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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