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秦佐八郎 はたさはちろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

秦佐八郎
はたさはちろう

[生]1873.3. 島根
[没]1938.11.22. 東京
細菌学者。サルバルサン発見の協力者。旧姓山根。 15歳のとき秦家の養子となる。第三高等学校第三部 (岡山大学医学部の前身) で医学を学び,1898年上京,伝染病研究所所長北里柴三郎の門に入り,まずペストを研究。 1907年ドイツに留学,コッホ研究所で免疫学を学び,次いでフランクフルトアムマインの国立実験研究所で P.エールリヒに師事した。その頃トリノ大学の病理解剖学者パロジ (1879~1928) が梅毒トレポネーマのカイウサギ睾丸内接種に成功したとの報で,は命じられてこの方法を学び,さらに 09年エールリヒを助けてサルバルサンを開発した。 10年帰国,14年北里研究所部長,20年慶應義塾大学教授。晩年は深達性殺菌薬を研究し,アクリジン,キノリン剤を開発したほか,熱帯病研究上の業績も大きい。

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百科事典マイペディアの解説

秦佐八郎【はたさはちろう】

細菌学者。島根県の生れ。1895年三高医学部(岡山)卒,軍務に服し,1898年伝染病研究所で北里柴三郎に師事。1907年ドイツに留学し,P.エールリヒに協力して1910年サルバルサンを発見した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

秦佐八郎 はた-さはちろう

1873-1938 明治-昭和時代前期の細菌学者。
明治6年3月23日生まれ。ドイツへ留学し,明治43年エールリヒと共同で梅毒にサルバルサン(俗称606号)が効果のあることを発見。梅毒の化学療法を確立した。帰国後,北里研究所創設に参加。大正9年慶大教授。学士院会員。昭和13年11月22日死去。66歳。島根県出身。第三高等学校医学部(現岡山大)卒。旧姓は山根。

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世界大百科事典 第2版の解説

はたさはちろう【秦佐八郎】

1873‐1938(明治6‐昭和13)
明治~昭和初期の細菌学者。P.エールリヒと共同でサルバルサンを発見し,化学療法の端緒を開いた。島根県生れ。本姓山根。1887年秦徳太の養子となる。第三高等学校第三部を卒業し,井上善次郎に内科を,荒木寅三郎に医化学を学ぶ。軍務を経て,伝染病研究所で北里柴三郎に就きペストを研究。日露戦争に従軍し,似島検疫所開設に関与したのち1907年ドイツに留学,ベルリンのコッホ研究所でA.vonワッサーマンに,ついで国立実験研究所でエールリヒに学び,10年彼とともに梅毒の化学療法剤サルバルサン(606号)を発見した。

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大辞林 第三版の解説

はたさはちろう【秦佐八郎】

1873~1938) 細菌学者。島根県生まれ。慶大教授。ドイツのコッホ研究所で免疫学を学び、1910年エールリヒと共同で梅毒の化学療法剤サルバルサンを発見。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

秦佐八郎
はたさはちろう
(1873―1938)

微生物学者。明治6年3月23日島根県美濃(みの)郡都茂(つも)村(現、益田市)に生まれ、秦徳太の養子となった(1887)。1891年(明治24)、当時岡山にあった第三高等学校医学部(現、岡山大学医学部)へ入学、1895年同校卒業。軍務に服したのち、岡山県立病院勤務(1897)、東京へ出て北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)の門下となり伝染病研究所助手(1898)、ドイツへ留学(1907)してワッセルマンに学び、ついでエールリヒ、さらにヤコビーMartin Jacoby(1872―1941)のもとで研究し帰国(1910)、北里研究所新設の際北里に従って官を辞し(1914)、慶応義塾大学教授(1920)、北里研究所副所長(1931)。帝国学士院会員(1933)。おもな研究は、エールリヒと共同でサルバルサン(俗称606号)が化学療法剤として回帰熱、梅毒、マラリアに卓効があることを発見したことであり(1910)、晩年には深達性消毒薬の研究で浅川賞(1934)を受けた。昭和13年11月22日没。益田市美都(みと)町には、業績を顕彰する秦記念館がある。[岩田敦子]

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世界大百科事典内の秦佐八郎の言及

【医学】より

…このような治療血清やワクチンは,細菌学の技法を用いているとはいえ,基本的にはE.ジェンナーの牛痘接種による痘瘡(とうそう)予防と同じく,生体自身がもっている免疫能力を利用したものである。ところが同じくコッホの門人であったP.エールリヒは,細菌には染料によって着色されやすいものとそうでないもののあることから,細菌のみに作用して動物や人体には影響のない物質を発見できる理論的可能性に着目し,秦佐八郎とともに梅毒の病原体にのみ特異的に結合し,その発育を阻止する物質サルバルサンを開発,化学療法の基礎をきずいた(1909)。このような開発研究は,アイデアはともかくとして,実験が多大の資材や人員を要し,いかに政府によって設立され,経常費を支出されている研究室でも,その限界を上まわる。…

【化学療法】より


[化学療法剤の開発史]
 上記のような考え方で研究を開始したエールリヒは1904年,まずトリパン赤というアニリン色素でトリパノソーマ(アフリカの睡眠病の病原虫)に感染したマウスの治療に成功した。ついで彼と秦佐八郎は多数の有機ヒ素化合物を系統的に合成し,それらの実験梅毒に対する効果を一つずつしらべた。606番目の合成品に至って,これが最も毒性が弱く効果の高いことが発見され(1910),サルバルサンと命名されて臨床にも使用されることになった。…

【サルバルサン】より

…1910年に秦佐八郎とP.エールリヒらが開発した梅毒治療薬で,化学療法剤の第1号。有機ヒ素化合物で,化学名は3,3′‐ジアミノ‐4,4′‐ジヒドロオキシアルセノベンゼンの塩酸塩。…

【梅毒】より

…梅毒が他の性病と区別されるようになったのは,1905年にF.R.シャウディンとホフマンErich Hoffmann(1868‐1959)により梅毒トレポネマが発見されて以後のことである(はじめスピロヘータ・パリダと命名,のちにトレポネマ・パリズムと改称)。1910年P.エールリヒ,秦佐八郎によって有機ヒ素剤であるサルバルサンが開発され,初めての化学療法剤として梅毒の治療に用いられたが,治療効果は不十分であり,副作用が多発した。40年代以降は,梅毒に対してはペニシリンを中心とする抗生物質による治療が行われるようになった。…

※「秦佐八郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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