オーストラリア演劇(読み)オーストラリアえんげき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストラリア演劇」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア演劇
オーストラリアえんげき

オーストラリア演劇の歴史は,1789年シドニーで流刑者がジョージ・ファーカーの『募兵官』を上演したのが最初といわれる。初めの頃はアマチュアによる芝居しかなかったが,1832年アメリカ人 B.レビーがシドニーにロイヤル劇場を開設,翻案物を主とした娯楽劇を提供するようになった。19世紀前半の注目すべき作品としては,D.バーンの『逃亡流刑囚』The Bushrangers(1828)があるが,これは流刑囚の生活をリアルに描いたものである。一般に 19世紀前半のオーストラリア戯曲は,バーンを除いて,ほとんどイギリスの模倣であり,メロドラマが多かったが,19世紀後半になると,オーストラリアの自然や風土と牧畜業者との闘いをテーマとしたブランド・ホルトの『干魃との闘い』The Breaking of the Drought(1893)のような作品も出てきた。この時期の興行界は,元アメリカ人俳優でオーストラリア最大の興行主となったジェームズ・C.ウィリアムソンによって独占されており,ロンドン,ニューヨークから人気俳優を招いてポピュラーな作品の上演を行なった。オーストラリアの国民演劇をまったく無視したウィリアムソンの方針に反対して,20世紀に入ると非商業的な小劇場運動が起こった。レオン・ブロドスキーはアイルランド演劇に影響されて,1904年にオーストラリア演劇協会を結成メルボルンとシドニーにレパートリー・シアターを開設した。L.エーソンもまた,ウィリアム・バトラー・イェーツやジョン・ミリントン・シングに刺激されて,メルボルンにパイオニア・プレーヤーズ劇団(1921~23)を結成。このほか,ジョージ・バーナード・ショー,ヘンリック・ヨハン・イプセン,モーリス・メーテルランクらの近代劇を紹介したアデレード・レパートリー劇団,アラン・ウィルキーのシェークスピア劇団など,芸術劇場運動が盛んになった。20世紀の劇作家としては,詩劇『ネッド・ケリー』Ned Kelly(1956)を書いたダグラススチュアート,『さびたラッパ』Rusty Bugles(1948)のサムナー・ロック=エリオット,『17年目の人形の贈り物』Summer of the Seventeenth Doll(1955)のレイ・ロウラー,喜劇『サーサパリラのにぎわう季節』The Season at Sarsaparilla(1962)のパトリックホワイトらがいる。1954年には,エリザベス女王来訪を記念して,H.ハントを理事長に迎えてエリザベス演劇協会が結成され,シドニーのマジェスティック劇場をエリザベス劇場と改称して,協会の活動の本拠とした。1966年にはニューサウスウェールズ大学演劇協会によって,新進劇作家に上演の場を提供する実験劇場ジェーン・ストリート劇場が開設された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android