改訂新版 世界大百科事典 「アイルランド演劇」の意味・わかりやすい解説
アイルランド演劇 (アイルランドえんげき)
中世に教会で演じられた宗教劇があったことは,文献的に確認されているが,その後久しく土着の演劇は途絶え,もっぱらイギリスの巡業劇団がロンドンの評判作をダブリンで上演するだけだった。1899年,イェーツとグレゴリー夫人の協力によるアイルランド文芸劇場Irish Literary Theatreの設立から,この国の演劇は始まると考えてよい。イギリスやヨーロッパの商業的あるいは自然主義的演劇の模倣ではなく,祖国の神話,民俗的伝統,また社会的現実に題材を求めること,ただし政治的党派性を排して,真の民族的文化の自覚を高めること--このような目標をかかげて同志を集めた運動は,1903年アイルランド国民劇場協会Irish National Theatre Societyへと発展し,04年にはホーニマン女史の援助でダブリンに拠点劇場アベー座が建てられた。伝説的英雄クーフリンを扱った《バーリアの浜辺で》(1904初演)から最晩年の《煉獄》(1938初演)にいたるイェーツの戯曲のほとんどがここで初演されたほか,脱獄した独立運動家を扱ったグレゴリー夫人の《月の出》(1907初演),アラン諸島に生きる貧しい漁民たちの不幸を描いたJ.M.シングの簡潔な悲劇《海へ騎(の)りゆく人々》(1904初演)などの秀作が生まれた。ケルト民族特有の幻視的ロマンティシズムにみちた作品や,西部地方の方言を会話に生かした写実的でしかも詩情豊かな作品など,さまざまな作風の作品が簡素で象徴的な演出によって上演され,アベー座は20世紀初頭の世界演劇における重要な一拠点と目されるにいたった。しかし,ほら吹きの流れ者が一小村にまき起こす喜劇を描いたシングの傑作《西の国の伊達男》(1907初演)の上演が,反道徳的・反民族的という理由で妨害されるなど,イェーツたちの運動は必ずしも広範な支持を得ていたわけではなかった。ほかにアベー座に縁の深い劇作家として,《狙撃者の影》(1923初演)や《ジューノーとクジャク》(1924初演)などでダブリンの市民たちを舞台にのせて成功したS.オケーシー,《きらめく門》(1909初演)のダンセーニ,マーティンEdward Martyn,パドリック・コラム,ロビンソンLennox Robinsonなどがいる。
1928年,マイケル・マクリアモアらによって建てられたゲート座Gate Theatreでは,アイルランド以外の古今の名作の上演が行われたほか,表現主義的な作劇術を駆使した《老婦人は否と言う》(1929初演)や《黄河の月》(1931初演)などの作者ジョンストンDenis Johnstonが活躍した。50年代にできたパイク座Pike Theatreは,気鋭の演出家アラン・シンプソンのもと,ベケットの《ゴドーを待ちながら》のアイルランド初演をロンドン初演と同年(1955)に行って気を吐いた。ブレンダン・ビーハンBrendan Behanの《死刑囚》(1954初演),同じ作者がまず58年にゲーリック語で書き後に英語に書き改めて国際的に有名になった《人質》もこの劇場で初演された。両作品とも,反英非合法活動を題材とし,アメリカやカナダでは上演禁止となったほど激しい風刺や猥雑な台詞に満ちている。イェーツから今日まで,反英抗争をめぐる題材がアイルランド演劇の最大の部分を占めているのは,この国の不幸な歴史を思えば,当然というべきであろう。
→アイルランド文学
執筆者:高橋 康也
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