1930年以降に展開されたケインズ経済学の中核をなす理論の一つ。とりあげている問題は,独立支出(とくに投資)の増加が,国民所得の均衡水準をどれだけ上昇させるかという点である。結論を先に述べれば次のようになる。(1)独立支出は所得水準の大きさやその変化に依存しない支出であるが(その代表的なものとして公共投資のための支出などがあげられる),その水準の増加はなされた独立支出と同額ではなく,その〈数倍〉の所得の増加をもたらすということ。そして(2)国民経済における限界消費性向が高ければ高いほど,その〈数倍〉分は大きくなるということ,の2点に要約できる。この〈数倍〉が乗数multiplierと呼ばれる数で,消費と所得との関係によって規定されるものである。
この理論の重要性は,均衡においては所得と総需要は等しいはずであるから,たとえば1億円の独立支出の増加は,均衡国民所得も1億円増加させるはずであるという〈常識〉を打ち破っている点にある。その理由を簡単な数値例を用いて説明しよう。
いま仮に1億円の独立支出の増加があり,これに見合うだけの所得(すなわち生産物)の増加が発生したとする。ところがこの所得の上昇は次に消費支出をも増加させるため,さらに支出の増加を誘発することになる。はじめの1億円の所得の増加のうち,どれくらいの消費支出が誘発されるのだろうか。これを決めるのが〈限界消費性向〉と呼ばれるもので,追加的な所得の増分のうち,どれくらいの割合がさらに消費されるのかを示す数値(c)である。この誘発された支出に見合うように生産も増加したとすると,所得(生産物)の増加は1億円に加うるにc億円,すなわち(1+c)億円ということになる。ところがこのプロセスは1度だけで停止するわけではない。(1+c)億円の所得の増加はさらに消費支出を増加し,その後も同じような循環過程がつづくからである。需要(支出)の増大を満たすための産出量の増大が,さらに需要を増大させる。この循環にはどのようにして終止符がうたれるのだろうか。この問題に答えるためには,無限級数の初歩的な知識が必要となる。
⊿c+cYという関係(これは消費関数と呼ばれている)があったとすると,⊿ の所得の増加はc(⊿ )だけの消費支出の増加を誘発することになる。そして次にこの消費支出の増加を満たすために,c(⊿ )の生産の拡大が必要となり,その結果所得もc(⊿ )だけ増加する。c(⊿ )の所得の増加が,消費関数からc(c⊿ )の量の消費の増加をさらに生み出すことは先に述べた事情とまったく同じである。このようなプロセスによって生まれる消費の増大と,最初の独立支出(⊿ )を合計したものは,
円の独立支出(需要)の増大が,同額の生産の拡大を可能にしたとしよう。この⊿ 円の生産の拡大は,同額の所得の増加となって,だれかの手中に入るはずである。いま所得(Y)と消費(c)の間に,c=⊿A=⊿
+c(⊿ )+c2⊿ +c3⊿ +……=⊿
(1+c+c2+c3+……)と級数的に表現できる。ここで注意を要することは,限界消費性向を表すcが通常1より小さいため,この幾何級数は収束するという点である。したがって,と書き直すことができる。この式は総支出の累積的総計が,最初の独立支出の増加の1/(1-c)倍であることを示している。この1/(1-c)が乗数と呼ばれるもので,cが0と1の間の数であるため,通常乗数は1より大きい。
以上述べたように,独立支出の最初の増加が,均衡の所得水準(生産物のレベル)を1/(1-c)倍も上昇させる,という点が乗数理論の骨子といえる。乗数は,限界消費性向が高いほど大きくなることはその定義より明らかである。これは限界消費性向が高いと,追加的な所得のうちの大きな割合が消費され,大きな消費支出は,大きな量の生産と所得を誘発するからである。
ケインズに先だって1931年に,ケンブリッジ大学のR.F.カーンが雇用乗数理論としてこのアイデアの基本部分を展開している。カーンの関心は,消費性向は一定として,公共投資の量を変化させたとき,雇用量がどのような定量的な変化を示すかというところにあった。したがって彼の雇用乗数は,投資財産業における一次的雇用が,限界的に1単位だけ増加したときに,全雇用量が限界的にどれくらい変化するかを示すものである。
カーンの理論にしろ,ケインズの理論(投資乗数investment multiplier理論)にしろ,公共投資の増加がどのような効果を均衡所得水準や雇用量に与えるのかという点を問題としている。しかしこの理論を実際に使おうとする場合,次の2点に留意しなければならない。一つは,この公共事業の効果を打ち消してしまうような民間投資の減少が起こっていないかということ。もう一つは,限界消費性向が所得や雇用のレベルによって変化しないかということである。とくに前者は,公共投資のための資金需要の増大や物価上昇によって,利子率が上昇し,民間の投資活動が低調になる可能性を示唆している。これはクラウディング・アウトと呼ばれる現象である。
また外国貿易が存在する場合には,独立支出の増加による乗数効果の一部は,外国における所得と雇用の増加となってあらわれる。これは貿易乗数foreign trade multiplierと呼ばれるもので,輸入品への需要の分だけ,乗数効果が外国へ漏出してしまうからである。この理論はR.ハロッドによってはじめてとりあげられた。
このように基本的には乗数ということばは,独立支出の変化が均衡産出量に及ぼす変化を論じる際の概念として使われている。しかし最近,時として,より広い意味で,外生変数(その理論によっては説明されない変数)の1単位当りの変化が,内生変数(その理論によって決定される変数)に及ぼす効果(たとえば所得税率の変化が失業率に与える効果),という意味でも使われるようになってきていることを注意しておきたい。
執筆者:猪木 武徳
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ある一定量の投資の増加がどれくらいの所得の増加をもたらすかを明らかにする理論。国民所得決定理論における重要な理論であり、ケインズ経済学の中核をなす理論の一つである。
国民所得決定理論では、所得Yは、
Y=C+I
を満たすように決定される。ここでCは消費支出、Iは投資支出であり、また政府部門と外国部門は考慮していない。消費関数は
C=cY+b c, b>0
と、所得の一次式で示されるとする。正の定数cは限界消費性向であり、その値は1より小さい。投資は所得に依存しない一定値であるとする。乗数理論は、このように外生的に決定される投資が増えると、それに応じて所得がどれほど増えるかを明確にするものである。たとえば投資がI0からI1へと増加したとする。投資がI0であるときの均衡点は、 ではE0と示されており、所得はY0に決定される。投資がI1へと増えたとする。新しい均衡点は点E1になり、所得はY1の大きさに決定される。つまり、投資がΔI=I1-I0だけ増えた結果、所得はΔY=Y1-Y0だけ増えたのである。この所得の増加分の投資の増加分に対する比率、つまりΔY/ΔIの値を乗数という。この乗数の大きさを求めてみよう。 の三角形E0E1Aは45度の三角定規の形をしている。したがって辺E0Aと辺E1Aの長さは等しくなる。辺E0Aは所得の増加ΔYを示す。辺E1Bは投資の増加ΔIに等しい。三角形E0ABに注意すると、角BE0Aの角度は限界消費性向cに等しいので、結局、辺BAの長さはcΔYになる。したがってE0A=E1Aより、
ΔY=cΔY+ΔI
を示すことができる。つまり乗数の大きさは、1から限界消費性向を差し引いて残る値の逆数となる。1から限界消費性向を差し引いた値は限界貯蓄性向とよばれるので、乗数の大きさは限界貯蓄性向の逆数に等しくなる。限界消費性向と限界貯蓄性向の値はそれぞれ1より小さいので、乗数の値は1より大きくなる。つまり投資が増える以上に所得は増えるのである。また人々の消費意欲(貯蓄意欲)が増して(減じて)限界消費性向(限界貯蓄性向)の値が大きく(小さく)なれば、乗数の値は大きくなる。たとえば限界消費性向が0.75から0.8になると、乗数は4から5へと増える。したがってこのような状態では、投資の増加はより大きな所得の増加をもたらす。つまり消費意欲の増大は善、貯蓄意欲の増大は悪となるわけである。ケインズ以前では、貯蓄意欲の増大、つまり倹約は美徳と信じられていたが、ケインズは消費こそは美徳であると主張したのである。このような考え方は「倹約のパラドックス」とよばれる。乗数の値を正確に推定することは、政府が実行する総需要管理政策の有効性にとってたいせつなこととなる。政府支出のうち公共投資を増加させる政策がとられるときに、乗数の値いかんにより、公共投資により誘発される所得の増え方が異なってくるからである。
これまでみてきたのは投資乗数についてであるが、このほかにもいろいろな乗数がある。たとえば、政府支出の増加がどれくらいの所得の増加をもたらすかを示すのが政府支出乗数であり、輸出の増加はどれくらいの所得の増加をもたらすかをみるのが輸出乗数である。
また乗数理論は、景気循環を説明するために、加速度原理と組み合わせて用いられている。
[内島敏之]
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(荒川章義 九州大学助教授 / 2007年)
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…31年,ケインズの小冊子〈ロイド・ジョージはそれをなしうるか〉に触発され,R.F.カーンは,政府が公共投資を行って一定数の人を雇用すると,その人の収入が支出され,それが生産を高めて,さらに雇用を増大するというようにして,政府が最初に雇用した数倍の雇用が生ずるという〈乗数の理論〉を展開した。この乗数理論は失業対策としての公共投資に理論的根拠を与えることになった。同時に,これはまた《貨幣論》(1933)の出版後,同書に対して加えられた批判に答える必要を感じていたケインズに新著を書く契機を提供することになった。…
※「乗数理論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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