ハインリヒ4世(読み)ハインリヒよんせい(英語表記)Heinrich IV

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハインリヒ4世」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ4世
ハインリヒよんせい
Heinrich IV

[生]1050.11.11. ゴスラル?
[没]1106.8.7. リエージュ
ドイツ史上に名高い叙任権闘争 (→叙任権論争 ) 時代のザリエル朝のドイツ王 (在位 1054~77) ,神聖ローマ皇帝 (在位 56~1106) 。彼の時代には,諸侯勢力が帝権を脅かしはじめ,幼時から苦難を経験せねばならず,1066年に実権を掌握してからは諸侯を押えるために城塞を設け,シュワーベン出身の家臣を用いて強力な皇帝政治を実施した。この頃ローマ教皇庁では教会改革運動が進められていたが,教皇グレゴリウス7世はドイツ皇帝が司教,修道院長の叙任権を有することを不当とし,ここに叙任権闘争が開始された。教皇は廃位をもって皇帝を脅かし,皇帝は 76年ウォルムスの宗教会議での教皇廃位をもって応酬した。そこで教皇はハインリヒ破門に処し,彼に対する臣下の忠誠義務を解いた。このためドイツとイタリア皇帝派教皇派 (→教皇派と皇帝派 ) に分れて内紛を生じたが,ザクセンおよび南ドイツの諸公ローマ側に加担したため,皇帝は苦境に立たされ,やむなくイタリアにおもむいてカノッサで教皇の赦免を得なければならなかった (1077) 。これが史上有名な「カノッサの屈辱」である。こうして危機を脱したハインリヒは勢力を盛返し,80年の教皇による再度の破門は効なく,かえってローマは占領され,教皇が逃亡先で客死する有様であった。しかしドイツの内乱は収まらず,ハインリヒは戦いに明け暮れ,1106年息子ハインリヒ5世との戦いのさなかに波乱の多い生涯を終えた。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハインリヒ4世」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ[4世]
Heinrich Ⅳ
生没年:1050-1106

ザリエル朝第3代のドイツ国王(在位1056-1105),神聖ローマ皇帝(在位1084-1105)。1056年父王ハインリヒ3世の死後,はじめは母后アグネスAgnesが,ついでケルン大司教アンノAnno,ブレーメン大司教アダルベルトAdalbertが摂政として国政を握った。65年成年に達したのち親政を開始,王権の基盤としてザクセンに国王直轄領をつくるべく努力したが,これに反発してザクセンの貴族と農民が反乱を起こし,74年この鎮圧に成功したが,引き続き教皇グレゴリウス7世との間の叙任権闘争に巻き込まれた。76年ハインリヒ4世はウォルムスの公会議で教皇廃位を決議させ,教皇は皇帝の破門をもってこれに対抗した。ドイツ諸侯が皇帝から離反したため,77年にハインリヒ4世はカノッサに赴いて教皇に破門の解除を請い(カノッサの屈辱),80年に諸侯に擁立された対立国王ルドルフを敗死させたが,息子ハインリヒ5世に背かれて王位を奪われ(1105),ライン諸都市の支持により再起をはかる途中で死亡した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハインリヒ4世」の解説

ハインリヒ4世(ハインリヒよんせい)
Heinrich Ⅳ.

1050~1106(在位1056~1106)

ドイツ,ザリエル朝第3代の神聖ローマ皇帝。3歳でドイツ王,6歳で父ハインリヒ3世の死を受けて皇帝即位,母アグネスが摂政した。1065年親政。ローマ教皇との対立(特にグレゴリウス7世との叙任権闘争カノッサの屈辱),諸侯の背反(ザクセン,テューリンゲンの反乱,対立王の擁立)に苦しみ,長子コンラート,次子ハインリヒ(のちの5世)にもそむかれるなど,波瀾の生涯を送った。

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367日誕生日大事典 「ハインリヒ4世」の解説

ハインリヒ4世

生年月日:1050年11月11日
叙任権論争時代のドイツ王(在位1054〜77),神聖ローマ皇帝(56〜1106)
1106年没

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世界大百科事典(旧版)内のハインリヒ4世の言及

【ピランデロ】より

…10年以降は短編の主人公が一人称で直接観客に語り始めたような戯曲を次々に発表する。《用心しろジャコミーノ》(1916),《そうと思えばその通り》《鈴付き帽子》(ともに1917),《昔のごとく昔より良し》(1920)により劇作家の地位を確立したのち,《作者を探す6人の登場人物》(1921)の革命的作劇術や,狂気と正常が対峙混在する《ハインリヒ4世》(1922)により世界演劇にピランデロ旋風を巻き起こすと同時に多くの哲学的論議を引き起こし,現代の前衛劇,不条理劇に多大な影響を与えた。晩年に政治,宗教,芸術を主題にした〈神話〉劇《新しい植民地》(1928),《ラザロ》(1929),未完の《山の巨人たち》(1937)を残した。…

【キリスト教】より

…これに対しオットー3世(在位996‐1002)は,〈王にして祭司〉という古ゲルマンの思想にもとづく教会統治権を行使して,司教を叙任したのみでなく教皇選挙にも加わろうとした。ハインリヒ3世(在位1039‐56)はフォティオスによる東西教会の分離(867)以後弱体化した教皇庁をみずからの手で改革せんとして,ドイツ人の教皇を立てた。そこで教皇側は教皇権至上主義を主張し,その普遍主義を各国王の分立主義に優先させる闘争を開始した。…

【グレゴリウス[7世]】より

…前名はヒルデブランドHildebrand。イタリア,トスカナの貧しい家に生まれ早くからローマに出て,サンタ・マリア修道院で教育を受け,グレゴリウス6世(在位1045‐46)に仕えたが,1046年ハインリヒ3世による教皇追放に同行してライン地方に亡命。翌年教皇の死を契機に修道士となるが,49年新任教皇レオ9世(在位1049‐54)とともにローマに帰り,以後6代の教皇のもとで大きな影響力を持つ。…

【ザリエル朝】より

…1024‐1125年。ハインリヒ3世(在位1039‐56),ハインリヒ4世(在位1056‐1106),ハインリヒ5世(在位1106‐25)と直系相続により4代継続。この王朝がザリエル朝と呼ばれだすのは12世紀初頭以降で,14世紀から一般に使われるようになった。…

【叙任権闘争】より

…これに対し,11世紀半ば以降諸教皇は教皇権の確立,規律の刷新を目指して改革にのりだした。特にグレゴリウス7世は教会の自由,教権の俗権に対する優越を主張し,聖職売買,俗人叙任を強く排撃してドイツ王ハインリヒ4世と対立した。王のミラノ大司教任命をきっかけに,1076年王と教皇との間に全面的衝突が生じ,帝権と教権の争いが開始されたのはこのためである。…

【政教分離】より

…皇帝は教会から追放されて俗人になり,キリスト者としての義務の履行については教会の判断に従うべきであると説かれたのである。教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を破門するときには,彼は国王職にふさわしくないと述べたのに対して,カノッサで贖罪する皇帝を赦すときに,破門の政治的効果の廃棄=国王職への復職を問題にしなかったのは,この分離の進行を物語っている。 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離は,叙任権闘争当時のキリスト教的社会においては,精神的なものの優位=教会政治に帰結したが,教会の至上性の主張が政治と宗教の分離を前提とする以上,宗教と政治の関係は可逆的であったことに留意する必要がある。…

【ラント平和令】より

…それはもろもろの暴力行為を平和攪乱の〈犯罪〉なりと規定し,違反者は死刑を含む流血身体刑をもって処罰されるべきものとした。その最初の事例は1103年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世によりマインツで公布された帝国平和令であり,その後,1235年の有名なマインツの帝国平和令にいたるまでの時期は,主として王権のイニシアティブのもと帝国全体を対象領域として公布されるものが多かった。その後,中世後期においては,個々の領邦(ラント)を妥当範囲とするラント平和令が主流となる。…

※「ハインリヒ4世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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