デジタル大辞泉
「善導寺」の意味・読み・例文・類語
ぜんどう‐じ〔ゼンダウ‐〕【善導寺】
福岡県久留米市にある浄土宗鎮西派の寺。山号は井上山。開創は建久2年(1191)、開山は弁長、開基は草野要阿。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
ぜんどう‐じゼンダウ‥【善導寺】
- 福岡県久留米市善導寺町にある浄土宗の大本山・鎮西本山・九州本山。山号は井上(せいじょう)山または終南山。建暦二年(一二一二)鎮西上人弁長が開山。後醍醐天皇の勅願所の宣をうけた。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]久留米市善導寺町飯田
巨瀬川下流左岸に位置する。終南山光明院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。鎮西本山とされた(寛文十年寺社開基)。寺伝によると、建久二年(一一九一)筑後国在国司・押領使である草野永平を開基大檀那、聖光上人弁阿弁長を開山として創建されたという(鎮西歴代誌)。一方、「聖光上人伝」によれば聖光が要阿(草野永種)・作阿夫妻を開基大檀那として伽藍を建立、善導寺と号したとされる。その時期は承元二年(一二〇八)ともいう(筑後将士軍談)。仁治二年(一二四一)六月一日の筑後国検交替使実録帳(宮内庁書陵部蔵諸官符口宣古宣命等古文書/鎌倉遺文八)に「善導寺」がみえ、瓦葺の金堂や講堂を備え、筑後国衙の管轄下にあった。なお「授手印徹心抄」によると光明寺が正称とされる。建保五年(一二一七)順徳天皇から勅額を与えられ(太宰管内志)、元徳二年(一三三〇)には後醍醐天皇の勅願所となったという(寛延記)。貞和五年(一三四九)六月日の荒木家有軍忠状(近藤文書/南北朝遺文(九州編)三)、正平九年(一三五四)一一月の草野永幸軍忠状(歴朝要紀所収一井文書/南北朝遺文(九州編)三)によれば、合戦の際に宿直警固した地の一つとして「善導寺」がみえる。また永和三年(一三七七)と推定される四月一三日の河野通直宛の宗金書状写(築山文書/南北朝遺文(九州編)五)によると、一時今川了俊(貞世)の在所となっていた。大永八年(一五二八)「筑前国善導寺満誉上人」(一四世)の香衣に関する記事が「実隆公記」同年八月七日条・一〇日条にみられる。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]博多区中呉服町
光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば建暦年中(一二一一―一三)彦山の麓で念仏勤行していた聖光と彦山座主蔵慶が、唐僧善導が博多津に到着する霊夢に導かれ箱崎松原で得た善導の木像を当寺に安置したという。当寺はもと法相宗の寺院であったが、以後浄土宗に改宗した。当寺は聖光が百日説法を行い、談議所とも称されたという。文明年中(一四六九―八七)筑後国善導寺(現久留米市)の広誉が博多の善導寺を再興し中興開山となったという(「続風土記」「続風土記拾遺」など)。文明一一年冬、朝廷は浄土宗の勅願寺として摂州慈雲院を指定したが、翌一二年二月二一日上洛していた善導寺僧の依頼を受けた浄教寺立誉の懇望によって善導寺に改めた。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]館林市楠町
近世には城下谷越町にあり、南西端の広い範囲を占めていた。終南山見松院と号し浄土宗、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると和銅元年(七〇八)僧行基が土橋村(現当郷)と加法師との間に草庵を営み止住したのが始まりといい、当初は城沼の北岸にあった。その後鎌倉中期に専修道場として再興され、別に大伽藍が営まれて浄土宗京都知恩院末となったという。幡随意上人聖教奥書(幡随院所蔵)には「佐貫善導寺住世二休長翁」が永禄八年(一五六五)九月一八日に釈浄土二蔵義巻第一六を書したことがみえる。天正一二年(一五八四)一二月二八日には当寺に宛て北条氏照禁制(善導寺文書)が下され、翌一三年正月二九日にも虎朱印のある北条家禁制(同文書)が下された。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]上越市寺町二丁目
称念寺の北隣にある。旧高田城本丸の真西、かつて城下を南北に二分していた二ノ辻通の西正面にあたる。終南山悟真院と号し本尊阿弥陀如来、浄土宗。寺伝によれば文明五年(一四七三)僧蓮開(蓮海)が直江津の西浜に光明寺を創建したのが当寺の始まりで、その後蓮開が夢告で得た善導大師像を安置して善導寺と改称したという(延宝年間「高田町寺社由緒書上」国会図書館蔵)。高田開府の際東北九六間・南北一〇三間の寺地を与えられて現在地に移転。松平忠輝時代には浄土宗の越後一国触頭となり、松平光長時代に長恩寺が触頭となるまで続いた。高田町寺社由緒書上によると本堂・書院・庫裏などが備わるほか地中に善慶院・長安院・養樹院・二楽院・安養院・長徳院・金雲院・迎勝院・王覚院・千躰院があり、鎮守として羽黒三社権現を祀っていた。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]吾妻町原町
原町の西北、岩櫃山から流れ出る滝沢の左岸にある浄土宗寺院。普光山と号し、本尊は阿弥陀如来。開山は識阿空寂で、貞治年間(一三六二―六八)の創建とされる。「善導寺代々記」によると川戸城主秋間泰則を開基とするが、「加沢記」は開基を岩櫃城主吾妻太郎とし、居城鬼門の川戸村字田辺に識阿を開山として貞治年間創建したという。識阿は浄土宗西山派総本山の禅林寺(現京都市左京区)二五世を継ぎ、善導寺二世はともに吾妻に来た円光上人が継いだ。禅林寺聖教の「証空上人当麻曼陀羅註記」奥書に、「大永五年於吾妻善導寺聴聞之後、以舜空上人之本書写」、「愚要集」奥書に「天文十辛丑於上野州吾妻庄河戸村田部普光山善導寺談義所写之畢、求法栄運之」とあり、西山派談義所として東国布教の中心寺院となっていた。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]東浦町緒川 屋敷
海鐘山と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。嘉吉三年(一四四三)の開山で、開祖は音誉聖観。「徇行記」は「尾陽雑記」所収として、次の寄進状をあげる。
<資料は省略されています>
度々の高潮にあって衰退したが、天文未年(「徇行記」では一七年)に三世宝誉秀尺が復興した。慶長一〇年(一六〇五)緒川城主水野分長が、山際の八幡前に移築して寺領二一石余を寄進。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]秋田市土崎港中央一丁目
北に浄円寺・蒼竜寺と続き、旧寺町の南部であった。三福山と号し、浄土宗、本尊は阿弥陀如来。明治期(一八六八―一九一二)の寺院台帳(秋田県庁蔵)に「開山万岌上人、幡随上人高弟也、開基年月不詳、元和二丙辰年ニ土崎湊町上酒田町後口ニ於テ地坪七百五十八坪、旧領主ヨリ除地拝領、寺坊創立(中略)其後類焼、年月不詳、元文三年現今之地地替願申立、五月七日願済」とある。
「湊町旧記」(川口家文書)に「元文三年卯年、善導寺度々類焼致候ニ付、是迄之住処表口三十間裏行五十間、此度上酒田町、下酒田町との間小路山ノ手方替地拝領致度、寺社方江も願申上候」とみえ、同年上酒田町後から現在地竜神通に移転することになった。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]美山町谷合
大黒山(五二四・四メートル)南東山麓に位置し、隠住山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊は阿弥陀如来。嘉暦三年(一三二八)谷合の臼井庄司治郎兼牧が創建した草庵が起りという。厚見郡西庄(現岐阜市)に立政寺を創建した智通光居が、文和五年(一三五六)谷合にきて兼牧の草庵に宿した。智通と兼牧は同じ夢告により、土中から一尺六寸の善導大師石像を掘出したという。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]大野市錦町
近世の大野城下寺町の北端近くにあたる。光明山悟真院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。永禄元年(一五五八)筑後国悟真院光明山善導寺(現福岡市博多区)の大誉鏡山によって開かれたという。初め大野の南、野口にあったが、慶長六年(一六〇一)大野城主となった土屋左馬助正明の帰依を受けて現在の当寺墓地の地に移り、寛永年中(一六二四―四四)松平直政の帰依によって当寺の隠居地であった三光寺跡地、すなわち現在地に移ったとされる。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]中里町深郷田 富森
深郷田集落の北端にあり、悟真山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと弘前貞昌寺末。
元禄九年(一六九六)の蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)に「真蓮社良覚上人建立焉此時永禄元年」とあるが、寺伝(中里町誌)では万治二年(一六五九)閑栄の開基である。創立当時の寺院は焼失し、八世智円が本堂および庫裏を再建、中興号を受け寛保三年(一七四三)没した。
善導寺
ぜんどうじ
[現在地名]伊南村古町 東居平
成法山と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。かつては若松高巌寺の末寺で、「新編会津風土記」には慶長八年(一六〇三)廓誉の開基とある。本尊は木造坐像で県指定重要文化財。像は漆箔玉眼入り、藤原時代の特徴をもつ檜の寄木造で、鎌倉時代前期の作とされる。俗に黒仏とよばれ、唐から渡来のとき竜神の目をくらますため墨を塗ったと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
善導寺(寺)
ぜんどうじ
福岡県久留米(くるめ)市善導寺町にある浄土宗の寺。終南山光明院(しゅうなんざんこうみょういん)と号する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。源空の弟子弁長(べんちょう)の開山。1204年(元久1)弁長は源空の下から九州に帰り念仏を広め、筑後(ちくご)国司草野永平の帰依(きえ)を得て光明寺を建立した。1212年(建暦2)弁長は夢に善導大師の姿を感得し、御影(みえい)堂を建てて大師像を安置した。一説に草野氏が宋(そう)朝渡来の善導像を安置したともいう。順徳(じゅんとく)天皇より善導寺の勅額を下賜されてのち、善導寺とよぶようになったという。後醍醐(ごだいご)天皇の勅願所となり、1330年(元徳2)「日域浄土最初梵刹(ぼんせつ)」および「祈祷(きとう)」の二つの額を賜った。その後、たびたびの兵火により焼失・復興を重ねたが、1616年(元和2)東照宮廟(びょう)を境内に建てた。徳川秀忠(ひでただ)は寺領500石を寄せ、徳川の菩提寺(ぼだいじ)とした。寺宝の善導大師坐像(ざぞう)、大紹正宗国師坐像、紺紙金泥観普賢(かんふげん)経は国の重要文化財である。
[清水 乞]
善導寺(地区)
ぜんどうじ
福岡県久留米市(くるめし)東部にある地区。旧善導寺町。地名は浄土宗善導寺に由来。門前町として発達したが、古くからの穀倉地帯で農業が盛んであり、最近は緑花流通センターも立地している。国道210号が通じ、JR久大(きゅうだい)本線(ゆふ高原線)善導寺駅がある。
[石黒正紀]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
善導寺
ぜんどうじ
福岡県南西部,久留米市中部の旧町域。 1967年久留米市に編入。筑後川中流域の田園地帯にあり,周囲は米作のほか自然堤防のクワ畑跡で施設野菜を栽培。東方の田主丸,草野とともに植木,苗木の産地。名刹善導寺がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
善導寺
福岡県久留米市にある寺院。山号は井上(せいじょう)山または終南山、院号は光明院。1191年開創。本尊は阿弥陀如来。本堂などは国の重要文化財に指定。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の善導寺の言及
【関東十八檀林】より
…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉[光明寺],武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝[増上寺],下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川[伝通院],上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…
【浄土宗】より
…二尊院は東山大谷の法然廟堂が知恩院として発展するまでの,法然滅後約1世紀半の間の京都における法然信仰の中心地であった。弁長は北九州で教化に専念し,草野氏の保護を受け,筑後国善導寺(現,久留米市)を建てた。同寺は北九州地域の浄土宗の中核となった。…
【善導】より
…善導の戒律主義も尊重され,鎌倉時代には《善導遺言》なるものが流布し,鎌倉市の浄光明寺は〈善導大師の遺誡を慕う持戒念仏寺〉(真阿譲状)として知られた。浄土宗では善導を高祖と仰ぎ,善導寺と号する寺も各地にあり,福岡県久留米市の善導寺は浄土宗大本山として有名である。善導の像は,口中から化仏を出し,また〈半金色(はんこんじき)の像〉といわれるように,下半身が金色となっている。…
【弁長】より
…99年(正治1)再び上洛し,1204年(元久1)まで法然に師事した。その後,筑前,筑後,肥後の各地に念仏を広め,多くの寺を開いたが,教化の中心は筑後にあり,とくに善導寺(久留米市)が拠点であった。1228年(安貞2)肥後の往生院で48日間の別時念仏を修し,この間に《末代念仏授手印》を著して,法然滅後の異義を正そうとした。…
※「善導寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」