ロシアの数学者。モスクワの生まれ。少女時代から数学に興味をもち、外国での勉強を望んだが、未婚のままで国外へ出ることを父に拒まれた。そこで18歳のとき、海外留学予定者コワレフスキーVladimir Onufrievich Kovalevski(1842―1883)と名義だけの結婚をして、ドイツのハイデルベルクへ行き、以後、二人は別行動をとった。数学者ケーニクスベルゲルLeo Königsberger(1837―1921)に師事したのち、1870年からワイアシュトラースにアーベル関数に関する個人指導を受けた。コワレフスカヤの進歩は著しく、充実した研究生活を送った。この間の業績のうちでもっとも有名なのは偏微分方程式の研究で、これに対して1874年秋ゲッティンゲン大学から学位を授与された。
1876年、父の死去を機に変則的な結婚から正式の結婚へ転じたが、ほどなく別居生活を始め、1883年3月、夫の自殺を契機に、ストックホルム大学長の招きを受けてこの大学の講師となった。当時は女性の聴講すら許されない状況であり、彼女や学長への非難は激しかったが、1888年パリ科学アカデミーが彼女にボルダン賞を授与したことにより、世間の評判もよくなった。まもなく教授になり、1891年2月に教授として初講義をしたが、数日後に、かぜがもとで他界した。
[小堀 憲]
『野上弥生子訳『ソーニャ・コヴァレフスカヤ(自伝と追想)』(岩波文庫)』
ロシアの数学者。20世紀以前におけるもっとも偉大な女性数学者といわれている。早くから数学に才能を発揮,18歳のとき契約結婚の形でロシアを出国してドイツに渡った。1869年ベルリンに移り,当時の解析学の世界的指導者であったK.ワイヤーシュトラスに師事する幸運に恵まれた。74年,偏微分方程式,アーベル積分,土星の環についての三つの研究を完成し,このうち第1のものが国際的にも高い評価を受け,75年ゲッティンゲン大学から異例の手続によって学位が授けられた。83年ストックホルム大学に招かれ,それ以降ここで数学の研究活動を行った。とくに89年に発表された《剛体の一つの定点のまわりの回転の問題について》と題する研究論文に対して,フランス学士院からボルダン賞が授けられた。彼女の学位論文は,1875年クレレの雑誌の第80巻に発表されたが,これはコーシー=コワレフスカヤの定理と呼ばれ,今日に至るも偏微分方程式論における不朽の基本定理として重要な地位を保っている。文学的才能もあり,とくに小説の形で書いたロシアにおける幼年時代の回想《ラエフスキー家の姉妹》(1890)が世界的に広く読まれている。
執筆者:溝畑 茂
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…微分方程式は17世紀以来応用数学の主役を占め,オイラーらはある種の偏微分方程式をも解いていたが,19世紀にはコーシーらにより偏微分方程式の場合も含めて解の存在などに関する一般論が扱われるようになった。後者についてのS.コワレフスカヤによる〈基本定理〉が発表されたのは1875年であった。
[現代の数学]
20世紀の初頭には,数学の性格はほぼ明らかとなり,その進展は加速度的となっていた。…
※「コワレフスカヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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