チャルトルイスキ(その他表記)Czartoryski, Adam Jerzy

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャルトルイスキ」の意味・わかりやすい解説

チャルトルイスキ
Czartoryski, Adam Jerzy

[生]1770.1.14. ワルシャワ
[没]1861.7.15. モンフェルメーユ
ポーランド政治家。 A.K.チャルトルイスキの子。西ヨーロッパ各国に遊学,イギリスの自由主義的保守主義の影響を受ける。 1791年帰国,翌年対ロシア戦争に参加,ポーランドの第3次分割 (1795) 後,所領の回復を求めてペテルブルグにおもむき,ロシア政府に仕官アレクサンドル大公 (のちの皇帝アレクサンドル1世) と親交を結び,その即位後政治顧問として,政府改革案を作成。 1802年ロシア外相代理,03年ウィルノ教育区主事となり,ポーランド語学校の発展に尽力。 04年外相に就任,英露協調に基づく世界平和を提唱し,またロシアの保護下にポーランドを独立させる「プワーウィ構想」を発表,しかし皇帝の同意が得られず失敗した。 06年反ナポレオン作戦不成功の責任をとって外相辞任。ナポレオン没落後ウィーン会議で活躍,アレクサンドルを元首にいただく自治的なポーランド王国創設に努力した。 16年政界引退。 27年『外交論』 Essai sur la diplomatieにおいて国際連盟を提唱。十一月蜂起 (1830~31) に際しては,当初反対,のち蜂起政府首班となった。敗北後,パリに亡命。その居所ランベール館を中心に亡命ポーランド人を組織,「無冠のポーランド王」と称された。西ヨーロッパ列強の介入によって独立回復をはかったが,一月蜂起を準備中にフランス客死

チャルトルイスキ
Czartoryscy, Adam Kazimierz

[生]1734
[没]1823
ポーランドの大貴族 (→マグナート ) 。政治家,著述家。 18世紀ポーランドの啓蒙的大貴族の代表者。 1763年王位を提供されたが,家門に逆らってこれを断り,スタニスワフ2世アウグスト・ポニャトフスキに譲った。雑誌『モニトル』の刊行,騎士学校 (士官学校) の創立国民教育委員会一員として活動。農民保護,市民階級の国政参加を主張し,『五月三日憲法』を支持した。

チャルトルイスキ
Czartoryscy, Władysław

[生]1828
[没]1894
ポーランドの大貴族 (→マグナート ) ,政治家。 1863年の一月蜂起の国民政府外交代表。以後チャルトルイスキ家の歴史文書,美術品の保存に専念,クラクフに博物館を設立した。

チャルトルイスキ
Czartoryscy, Kazimierz

[生]1674
[没]1741
ポーランドの政治家。リトアニアの蔵相,副宰相を歴任。ロシアに対抗し,近代的な中央集権国家の創設を目指した。一族郎党から成る政党「ファミリア」を結成,改革期ポーランドの内政に大きな影響を及ぼした。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャルトルイスキ」の意味・わかりやすい解説

チャルトルイスキ
ちゃるとるいすき
Adam Jerzy Czartoryski
(1770―1861)

ポーランドの政治家。大貴族の出身。1792年の対ロシア戦争に参加した。ポーランド第三次分割後、アレクサンドル1世の信任を受け、1802年ロシアの外相代理に就任し、04~06年には外務省の実権を握った。また、ビルニュス学区長として、ポーランドの学術、文化の発展にも寄与した。当初はロシアの庇護(ひご)によるポーランドの統合を意図し、ウィーン会議ではポーランド王国の創設に努力した。しかし30~31年の対ロシア蜂起(ほうき)時には、国民政府の首班となって蜂起を指導した。蜂起敗北後はパリに亡命し、亡命右派のホテル・ランベール派を指導、外交手腕を駆使してイギリス、フランス政府の援助によるポーランド独立運動を展開し、バルカンの民族運動にも影響を与えた。

[安部一郎]

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