基本情報
正式名称=リトアニア共和国Lietuvos Respublika, Republic of Lithuania
面積=6万5300km2
人口(2010)=329万人
首都=ビルニュスVilnius(ロシア名ビリニュス)(日本との時差=-7時間)
主要言語=リトアニア語(公用語),ロシア語,ポーランド語
通貨=リタLitas
ヨーロッパ北部にある共和国。首都はビリニュス。中世末に東ヨーロッパの大国(リトアニア大公国)になったが,その後ポーランドに従属し,ロシアに併合された。1920年独立したが,40年ソ連に併合され,91年再び独立。北はラトビア共和国,東と南は白ロシア(ベラルーシ)共和国,南西はロシア共和国の飛地カリーニングラード地区とポーランドに接する。エストニア共和国,ラトビア共和国と合わせて沿バルトPribaltike三国と呼ばれ,そのなかでは面積,人口とも最大であるが,他の2国と歴史的事情を異にし,地理的条件もあって近年まで発展が遅れていた。協和国内でのリトアニア人の人口比は1959年に79.3%,70年80.1%,79年80%と高く,かつその構成比はほとんど変化がない。おもな言語はリトアニア語とロシア語である。
自然
国土の大部分が氷河に削られた低い平地で,湖沼が約3000と多い。モレーンからなる中央部北西寄りのジェマイチア丘陵が標高200m前後で,白ロシアとの国境の丘陵の最高点でも292mにとどまる。ジュマイチア丘陵東方の中央低地が氷成粘土と巨礫の散在するローム層からなり,ところにより水はけもよくないが,概して強いポドゾル性土壌のこの国では比較的農耕に適している。南東部の狭いジェジュマリャイ平地は氷食谷の跡で,砂,砂利,小石の堆積物がとくに多い。国土の1/4を砂地が占めるが,その多くは森林でおおわれ,この国は沿バルト三国中最も緑が多い。とくに南部は松林の連なる砂丘,湿原,大小さまざまの湖沼に恵まれ,一般に変化に乏しい東ヨーロッパ平原のなかでは有数の自然美をなしている。
コハクが波に運ばれてくることで知られるバルト海岸と,カリーニングラード地区から伸びる長大なクルシ砂州が,この国のもう一つの景勝地で,ここは海岸保養地として利用され,共和国最大のネマン(ネムナス)川もクルシ潟に注いでいる。この国は生物の種類が多く,哺乳動物が60種,鳥類が200種近く,魚類が50種以上にのぼり,国内に多くの自然保護区がある。ユーラシアの大陸性気候とともに湿った大西洋気団の影響を受け,気候には比較的恵まれている。地面は4ヵ月凍り,ネマン川も3ヵ月氷結するが,海は凍らない。平均気温は中央低地で1月に-4.8℃,7月に17.2℃。雨は8月に多く,年平均降水量は750mmである。
住民
この国の民族構成は,リトアニア人80%,ロシア人8.9%,ポーランド人7.3%,白ロシア人1.7%,ウクライナ人0.9%,ユダヤ人0.4%,その他0.8%である(1979)。第2次大戦前の約20万人のユダヤ人はドイツ軍占領下に激減し,現在は1%にもみたない。都市人口は戦前の1939年に約23%であったが,70年に50%をこえた。人口密度は国の南部で高い。
歴史
(1)リトアニア大公国時代 のちリトアニア人を構成するバルト系諸族は,前2千年紀に白ロシア方面からネマン川と西ドビナ川の流域に浸透した。この地方は,古代のローマ人に〈コハク海岸〉として知られたが,地中海文明は波及せず,キリスト教化もヨーロッパで最も遅れた。13世紀に北のリボニアと西のプロイセンがドイツ人の騎士団に征服されたが,早くに戦士群をもっていたリトアニア人は1236年の戦いでドイツ人の進出をくい止め,大公ミンダウガス(在位1236ころ-63)が白ロシアの一部も含めて最初の統一を実現した。彼は一時キリスト教を受け入れたが,のち異教に復した。リトアニアは1290年再統一され,ビリニュスを首都とした大公ゲディミナス(在位1316-41)とその子アルギルダス(在位1345-77)が,南・西ロシアの諸公国を次々に勢力下に収め,バルト海から黒海に達する大国をつくりあげた。これに伴いこの国では東方正教徒の東スラブ系住民の比重が高まり,〈ルスカヤ・プラウダ〉の通用,公用語としての白ロシア語の使用など,ロシア化が進んだが,同時にドイツ商人が進出し,のちに大きな問題になるユダヤ人の移住も始まった。
1386年,アルギルダスの子ヨガイラJogaila(1350ころ-1434)が,カトリックの洗礼を受けてポーランド王(ブワジスワフ2世Władysław。在位1386-1434)を兼ね,リトアニアのカトリック化,ポーランド化のもとを置いたが,彼のもとで大公になったいとこのビータウタス(在位1392-1430)は,ほとんど独立の君主として行動し,1410年のグルンワルトの戦でドイツ騎士修道会の脅威を除く一方,タタールに対する大規模な十字軍,スモレンスク公国の併合,モスクワ公国の内乱への干渉など,積極的な東方政策を展開した。しかしリトアニア大公国はこれが最盛期で,この後は,リトアニア人と東スラブ系,カトリックと東方正教徒という民族的・宗教的対立に加えて,ポーランドの干渉,モスクワ・ロシアの圧力のため急速に衰えた。
文化的に遅れたこの国には,とくにルネサンス期にポーランドを介して西方文化が入り,宗教改革には多くの貴族が新教徒になったが,1579年ビリニュスにイエズス会の学校(ビルニュス大学の前身)が建てられ,この国でもカトリック反動が成功した。リトアニアと白ロシアの農民は終始伝統的教会に忠実で,また自分たちの言葉を守ったが,ポーランド貴族(シュラフタ)との同権を獲得したこの国の貴族は,ポーランド文化を身につけ,ポーランド語を母語とし,しだいにポーランド化していった。また彼らはポーランド同様,領主直営地経営を発展させ,農民を農奴化していった。ブワジスワフ2世で始まったポーランドとの王朝連合のもとで,国制もポーランド化した大公国は,リボニア戦争中のルブリンの連合(1569)で,形式的には対等ながら事実上ポーランドの従属領となり,またこの時ウクライナをポーランドに譲った。この後も16世紀末の教会合同に対する東部の東方正教徒の反発,17世紀中葉のスウェーデンの侵入の際のリトアニアの名門ラジビウ家Radziwiłłowieによる分離運動などがみられたが,1569年以後大公国はおおむねポーランド王国と運命をともにし,ポーランド分割で解体した。
(2)19~20世紀 大公国領のうちリトアニア本土は,1795年の第3次ポーランド分割で大部分がロシア領,ネマン川以西がプロイセン領となったが,後者はナポレオン戦争後のウィーン会議でロシア主権下のポーランド王国に入った。しかしこのほかに,騎士団進出以来ドイツ人支配下のプロイセン北部にリトアニア人居住地があった。ここでは18世紀にルター派教会とケーニヒスベルク大学(現,カリーニングラード)でリトアニア語・文化の研究が始まっていたが,これは1802年開設のビルニュス大学に受け継がれた。ロシア領リトアニアでは,30年のポーランドの十一月蜂起が,支配階級たるポーランド系地主を中心に波及し,このためロシア語の強制,東方正教の布教などのロシア化政策が強化され,ビルニュス大学も閉じられた。しかしプロイセン領からはリトアニア語文献がもちこまれ,80年代には農民出身のリトアニア人インテリゲンチャによる啓蒙活動が,カトリック教会の支持をも得て広がった。
リトアニアでは地主も農民もカトリックで,ポーランド文化と大公国の伝統が強く残り,これはロシア化政策への抵抗の支えになったが,リトアニア人自身の民族意識の形成を遅らせる一面をももった。リトアニアの地主は農業経営に熱心で,1861年のロシア帝国の農奴解放でリトアニア3県の地主がまず解放への動きを示した。しかし,63年のポーランドの一月蜂起にも彼らはすぐ反応し,激しいパルチザン戦の鎮圧後,きびしい軍政と関係者多数の処刑,流刑や所領没収が続き,3県には他の西部諸県同様ゼムストボも導入されなかった。西部諸県で政府はまた,地主勢力を牽制するため農民の土地所有を助成する措置をとったが,リトアニアでは農民経営は安定せず,工業の発展も遅れたため,第1次大戦までに住民の1/3が外国,とくに北アメリカに移住した。19世紀末に始まった労働運動と社会運動の中心は都市の白ロシア人とユダヤ人であったが,1905年のロシア革命の際約2000人の代表が会して自治を要求し,一時はリトアニア語による教育も認められた。
第1次大戦では15年からドイツ軍に占領され,18年には独立を宣言したが,ドイツ軍撤退後に進出した赤軍のもとでソビエト権力が宣言され,この赤軍が撃退されて20年に独立が達成された。しかし同年10月ポーランドがビリニュス地方を占領して自国に編入し,国際連盟も結局これを認めたので,リトアニアは歴史的に関係の深いポーランドと建国早々に敵対関係に入った。カウナスを臨時首都とした政府は22年の土地改革でおもにポーランド系の地主を排除し,また民主憲法を制定し,23年には国際連盟管理下のクライペダを実力で併合したが,対ソ政策などをめぐって政局は安定せず,26年末にボルデマラスAugustinas Woldemaras(1883-1942)がクーデタで権威主義的体制をしいた。彼は,その基盤たる極右団体のユダヤ人虐殺事件で反発を招き,29年に失脚したが,その後も大統領スメートナAntanas Smetona(1874-1944)のもとで独裁政治が続いた。
第2次大戦前夜の38年,リトアニアはポーランドからの圧力でビリニュス地方への要求を放棄し,39年3月にはドイツにクライペダ地区の放棄を強いられた。同年秋ポーランドをドイツと分割したソ連邦からビルニュス地区を譲られたが,同時にソ連軍の基地を認めさせられ,翌40年8月ソ連邦に加入した。続く独ソ戦では41-44年の間ドイツ軍に占領され,その間に約19万人のユダヤ人を含めて25万~30万人の犠牲者を出した。これに先立つソ連軍の駐留と撤退時にも社会各層の指導者約4万5000人が追放または処刑され,さらにソ連軍による〈解放〉時に約7万人の市民が西方に逃れ,ほかにもドイツ系,ポーランド系住民約25万人の転出があり,人口は終戦時までに激減した。戦後も45-46年と農業集団化が強行された49年にあわせて20万人以上が北ロシアとシベリアに送られたとみられるが,かなりのものは54年に帰郷した。これはリトアニアの森を基地に戦後8年間続いたパルチザン活動の終息後になるが,この反ソ武力活動は公式記録でも約2万人の犠牲者を出し,その規模と期間で西ウクライナのそれに次ぐものであった。リトアニアのソビエト政権は50年代半ばまでに安定したが,その後も民族主義分子の追放が間欠的に行われ,人口中のリトアニア人共産党員の比もかなり低い。
90年3月リトアニア最高会議は独立を宣言したが,連邦政府はこれを認めず,経済制裁で応えた。しかし,91年8月の連邦政府保守派によるクーデター失敗で情勢は一変し,独立が承認された。
経済
リトアニア経済は戦前低い水準にあったが,戦後,とくに1960年代からの発展が著しく,81年の工業生産高は1940年の60倍をこえる。資源に乏しいため政策的に精密機械工業と金属加工工業に重点がおかれており,これが就業人口の1/3を占める。各種の工作機械・器具,電動機,テレビなどを広く他共和国に供給し,化学工業,建築材料の生産も発展している。エネルギー関係ではネマン水系の水力発電開発のほか,61年天然ガスのパイプラインがウクライナのダシャワからビリニュスに達し,現在は東部に総出力600万kWになる予定の巨大なイグナリナ原子力発電所を建設中である。
リトアニアの小農経営は戦前は生産性が低く,戦後の農業集団化に伴う混乱でさらに生産が落ちたが,農業の機械化,湿地の干拓による農地の改良・造成とともに生産も伸び,70年代半ばに1940年水準の2倍をこえた。82年末に740のコルホーズと311のソホーズがあり,穀作と工芸作物,野菜類の栽培のほか,とくに牛乳と食肉の生産に重点がおかれ,農業生産高の約7割を酪農部門が占めているが,その伸びは1970年代後半から停滞気味である。
林業はこの国の伝統的産業で,パルプなどの生産もふえ,水産物加工も,綿,麻,羊毛,ビートなどの加工とともに近代化されつつあるが,これらの分野でこの共和国の占める比重は低い。主として北部が農業地帯,南部が工業地帯であり,バルト海岸には,漁業と海運の基地がある。
教育,文化,宗教
独立前に民族語教育がほとんど行われなかったリトアニアでは,ラトビア,エストニアに比べて識字率も低かった。独立後の共和国政府は教師の不足に悩みながら教育に力を入れ,1939年に9歳から49歳までの識字率が76.7%になり,70年に99.7%に達した。共和国予算の約1割が教育・文化関係に支出され,70年代初めからの普通中等教育(10年制)への移行はすでに終わり,後期中等教育と高等教育も整備され,ソ連最古の起源を誇っていたビリニュス大学はじめ,1866年創設のビリニュス美術学院,専門大学としてカウナスの工業大学と医科大学など,全国に12の高等教育機関がある。これらを背景に共和国は高い高等教育の普及率を誇っているが,図書館,博物館もよく組織され,図書館の数と出版物の部数でも人口比ではソ連邦のなかで上位を占めていた。単行本,小冊子,雑誌とも,刊行点数,発行部数でリトアニア語のものが大半を占め,戦前からのラジオ放送にはリトアニア語,ロシア語,ポーランド語が,1957年に始まったテレビ放送ではリトアニア語とロシア語が使われている。ロシア語の学習は学校教育でも義務化されている。
リトアニアはソ連邦でただひとつカトリック圏に属した国(1940年に住民の80%がカトリック教徒。リトアニア人住民だけでは94%にのぼる)で,この教会が歴史的に民族統合の中心でもあったから,ソ連政府と共産党もとくに気をつかってきたと思われるが,バチカンの資料によれば,1947年まで自由に活動していた1332人の神父のうち約1000人が50年7月までにロシア共和国に送られたとされ,現在の教会の役割はよくわからない。
産業化・都市化の影響にもかかわらず,ヨーロッパ最古の言語と文化に根ざしたリトアニア人の民謡,民話,伝承,格言,さらに民俗は現在も伝えられ,とくに〈ダイノスdainos〉と呼ばれる民謡が有名である。音楽もこの国で古い伝統をもち,毎年夏に全国の町と村で歌と踊りの祭りが開かれ,5年ごとの全国大会には5万人もの参加者がある。また落ち着いた色調と独特の幾何学模様と花模様を特徴とする民芸品(陶器,皮細工,木彫,織物)も,この国の伝統を伝えるものである。
執筆者:鳥山 成人