改訂新版 世界大百科事典 「シュタウフェン朝」の意味・わかりやすい解説
シュタウフェン朝 (シュタウフェンちょう)
Staufer
中世中期ドイツの貴族家門。ホーエンシュタウフェン朝Hohenstaufenとも呼ばれる。11世紀末いらい13世紀中葉の一門断絶にいたるまでシェワーベン大公。1138年から1254年まで,事実上連続してドイツ国王位につく。その間,フリードリヒ1世,ハインリヒ6世,フリードリヒ2世という3世代の英主は,いわゆる神聖ローマ皇帝としてヨーロッパ的覇権の樹立を目ざす。彼らの努力は挫折に終わるが,シュタウフェン諸帝の活躍は中世的皇帝権に最後の輝きを添えたと評価される。
草深い北東シュワーベンの地に,小城ホーエンシュタウフェン(現,ゲッピンゲン市北東5km)を本拠とし,ロルヒLorch修道院(城の北6km)を一門の墓所として歴史に登場したこの中堅貴族が,遂には王座にまで急上昇する契機は,叙任権闘争期におけるザリエル朝の国王への忠勤とそれにこたえた王の恩寵行為であった。すなわち,シュワーベンの最有力諸家が相次いで教皇派に転ずる情勢下で,ひとり王権の堡塁となったシュタウフェン家のフリードリヒに対し,ハインリヒ4世は1079年,シュワーベン大公位を与えるとともにただひとりの王女アグネスを嫁がせる。その2子,シュワーベン大公フリードリヒ2世独眼公(在位1105-47)とフランケン大公コンラート(後の国王)は,終始ハインリヒ5世の支柱として西南ドイツを固め,王が子なくして死んだ後には,そのザリエル家領を相続し,ドイツ王位の継承権をも主張した。そして,1125年の国王選挙に際して独眼公はザクセン大公ロタール(国王として3世)の前に敗れたが,同王の死(1137)後,今度はコンラートが先王の女婿ウェルフェン家Welfenのハインリヒ倨傲公Heinrich der Stolze(?-1139)の競争を退けてドイツ国王に選出された。
シュタウフェン朝諸王のうち最も大きな足跡を残したのはフリードリヒ1世(バルバロッサ,赤髭王)である。コンラート3世の治世14年間がウェルフェン家との抗争に明け暮れたとすれば,その甥フリードリヒ1世は母(ユーディト)からひいたウェルフェンの血のゆえに,両家和解の象徴として聖俗諸侯の一致した支持のもとで王位についた(1152)。彼は国内の係争事項を個別的に解決したのちイタリア遠征に赴き(在位中のイタリア遠征は6回をかぞえる),1155年,教皇ハドリアヌスの手によって皇帝に戴冠される。
フリードリヒ1世のドイツ国内政策は,一口でいえば,強力な王権を中心にレーン制のきずなで束ねられた聖俗帝国諸侯によって構成される身分制的ドイツ王国の形成であり,これは,1180年のいわゆるハインリヒ獅子公の失脚を機にほぼ軌道にのったと言ってよい。一方,神聖ローマ皇帝権を昔日の姿において再興しようとする彼の皇帝政策は,ローマ教皇側の反撃のみならず,力強く成長したイタリア諸都市の抵抗,英仏王権の反発をよびおこした。とりわけ,ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの結婚を通じて,シチリア王国がシュタウフェン朝の皇帝の手中に帰したことは,すべての反シュタウフェン政治勢力を結集せしめる結果となった。そして,1197年,ハインリヒ6世が2歳の王子(フリードリヒ2世)をシチリアに残して夭折すると,この機をとらえた教皇は諸侯を動かしてウェルフェン家のオットー4世Otto IV(在位1198-1215)をドイツ国王に選出せしめ,これに対抗するシュタウフェン派は皇帝の末弟フィリップPhilipp(シュワーベン公)を擁立,ドイツは二重国王体制の混乱に陥る。
1208年,フィリップが私怨によって暗殺され,中心を失ったシュタウフェン家の勢力を再び興したのは,フリードリヒ2世であった。彼の壮大な政治理念は,イタリアを中心とする地中海帝国の形成にあり,ドイツの統治は長子ハインリヒ7世,次子コンラート4世Konrad IV(ドイツ国王,在位1237-54)にまかせた。フリードリヒの命とりになったのは教皇との対立であり,異端の烙印をおされ,教会の迫害者として破門された彼に対抗して,ドイツでは1246年ハインリヒ・ラスペが,1247年にはウィルヘルム・フォン・ホラントWilhelm von Hollandが国王に選出された。フリードリヒが死去するとともに,シュタウフェン家の勢いは落日の早さで落ち,シチリアを手中にするため遠征したコンラート4世が1254年他界した後には,同家からのドイツ国王候補は現れなかった(大空位時代)。その子コンラーディンKonradin(Konrad,1252-68)は1267年,イタリアに遠征して敗れ,翌年シャルル・ダンジューの命によってナポリに処刑され,シュタウフェン家は断絶した。
執筆者:山田 欣吾
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