ドイツの数学者。フランスからライン地方への移民の子孫で、アーヘン近くで生まれた。16歳で中学を終え、1822年からパリに遊学した。1826年、x5+y5=z5が整数解をもたないことを証明した。1828年ベルリン大学の講師になり、ガウスの死後、1855年からゲッティンゲン大学に移った。メンデルスゾーンの妹と結婚したため、家には音楽家や芸術家などが詰めかけ、大いに困ったといわれる。
19世紀前半の著名な数学者の一人であり、その業績は多い。対応としての関数概念を初めて与えた。彼の名前を冠した数学上の概念や定理は多く、代表的なものとして、aとbが互いに素ならば、無限数列のa+b,a+2b,……,a+nb……のなかに無限に多くの素数がある。これは素数についての「ディリクレの定理」とよばれている。また、(n+1)人をn個の部屋に入れようとすれば、一つの部屋には2人以上入らなければならない、ということが「ディリクレの原理」として知られている。ほかにディリクレ級数、ディリクレの積分、調和関数を求めるディリクレ問題などがある。著作にはデーデキントがまとめたディリクレの『整数論講義』がある。
[井関清志]
数論,解析学の諸分野で19世紀前半の数学に重要な貢献をしたドイツの数学者。ドイツのデューレンに生まれ,1822年フランスに留学,25年五次不定方程式に関する論文をアカデミー・デ・シアンスに提出して認められる。26年にドイツにもどりブレスラウ大学私講師となる。28年ベルリン大学準教授,続いて教授となり,31年ベルリン科学アカデミー会員。そのころよりC.G.ヤコビと親交を結ぶ。55年C.F.ガウスの後任としてゲッティンゲン大学に招聘(しようへい)され赴任するが,4年後同地で病没した。若いときからガウスに私淑したが,数論を整理して多くの業績を挙げ,また数論に解析的方法を導入して〈初項と公差が互いに素な自然数よりなる等差数列は無限に多くの素数を含む〉ことを証明した。三角関数に関する論文では,収束のための重要な条件を与え,また関数の近代的な定義を与えた。ポテンシャル論では,領域の境界における値の与えられた調和関数の存在を論ずる〈ディリクレ問題〉を扱った。晩年には数理物理学に関する業績もある。講義がわかりやすかったことでも有名である。
執筆者:弥永 昌吉
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…コーシーは関数の概念を一応は一般的に定義したが,彼はまだ,式によって定義される関数という観念に,暗にとらわれていたようである。19世紀の中期になって,P.G.L.ディリクレが関数を数から数への対応として定義したことにより,一般の関数の概念が初めて確立された。また,コーシーの時代には極限の概念は確立していても一様収束の概念がなかったため,いくつかの誤った結果が導かれたが,N.H.アーベルによる一様収束の概念の発見によってそれらの問題点が明確になり,誤りは正された。…
…この4乗剰余の相互法則の研究は,一般のnべき剰余の相互法則の研究として,アイゼンシュタイン,E.E.クンマーらに受け継がれて,D.ヒルベルトによる類体論の構想の中に組み入れられた。 P.G.L.ディリクレは当時,難解であったガウスの《数論研究》の内容を理解しやすいものにしようと努め,さらに整数論に重要な寄与をした。その一つは解析学を整数論に応用したことである。…
※「ディリクレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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