改訂新版 世界大百科事典 「デカダン派」の意味・わかりやすい解説
デカダン派 (デカダンは)
décadent
〈デカダンスdécadence〉は一般に衰退,凋落,退廃を意味するフランス語である。本来はローマ帝国末期の文化が爛熟の極に衰退して技巧的になり,不自然,不健康,腐敗の様相をあらわしてくることを指したが,ここではパリを中心とした19世紀末の一群の芸術家たちの傾向を指す。1880年から85年にかけて,マラルメの〈火曜会〉に列席する青年たちがしだいに数を増してき,他方ではカフェを中心として,数多くのクラブが設立されたり小雑誌が刊行されたりして,デカダンスの美学を公然と口にする者がふえてきた。その際,彼らが師表として仰いだ先輩詩人はボードレール,ビリエ・ド・リラダン,ベルレーヌ,マラルメであったから,その運動は象徴主義(サンボリスム)のそれと重なり合うことになった。象徴主義が一定の文学理念を表現する言葉であるのに対して,デカダンスはむしろその心情的,ムード的な側面をあらわしているといえよう。すなわち世紀末の倦怠,頽廃趣味,ダンディズム,耽美主義,悪魔主義をふくんだ衰滅する主体の自己肯定,これがデカダンスの内容であった。すでにベルレーヌが詩のなかで〈われはデカダンスの末期の帝国〉と歌っており,のちに彼はこれに説明を加えて〈真紅と金とできらきら光った,このデカダンスという言葉を私は愛する〉といった。マラルメもヌーボーGermain Nouveauも,好んでデカダンスの語を使っている。
しかしそれらのなかでも,もっとも広範な影響を青年たちに与え,デカダン派を当時の主流であった自然主義と高踏派の流れから切り離し,その進むべき方向を明示したのは,〈デカダンスの聖書〉と呼ばれたユイスマンスの小説《さかしま》(1884)であった。《さかしま》の神経症的な主人公デゼッサントDes Esseintesのモデルは実在する貴族詩人モンテスキューRobert de Montesquiouだといわれているが,必ずしもそう考えなくてもよい。この気むずかしい病弱な独身者は,ある程度まで作者たるユイスマンスの教養や学殖や趣味を代弁しているからである。すなわちデゼッサントは,自分の生きている19世紀末のブルジョア社会,物質主義と功利主義の浸透したフランスを頭から軽蔑し,日常的な俗悪な現実をいっさい拒否し,カトリック的中世にあこがれ,ひたすら感覚と趣味とを洗練させて,この世ならぬ人工的な夢幻の境に逃避しようとする。彼の愛するものは頽唐期のラテン文学であり,サドでありボードレールでありマラルメであり,画家ではゴヤでありG.モローでありルドンである。のちのデカダン派の作家や画家が手本としたような,〈ファム・ファタル(宿命の女)〉たるサロメへの共感や,両性具有的な倒錯への好みや,スフィンクスや宝石や香料や蘭の花や,中世趣味や,ビザンティン趣味や,サディズムや悪魔学や神秘主義や人工性の賛美についても語られている。O.ワイルドの《ドリアン・グレーの肖像》も,この《さかしま》なしには成立しなかったろうといわれている。
1886年,バジュAnatole Bajuが象徴派初期の機関誌《デカダン》を創刊したが,これにはベルレーヌ,マラルメの両大家をはじめとして,R.ギル,ラフォルグ,メリルStuart Merrill,タイヤードLaurent Tailhade,ロランJean Lorrainなども寄稿している。このほかデカダン派の作家として逸すべからざる人物にはモレアス,マンデス,シュウォブ,グールモン,女流のビビアンRenée Vivien,ラシルドRachilde,ベルギーのベルハーレン,ロデンバック,さらに神秘主義者のペラダンなどがいる。
以上のような傾向は文学以外の諸芸術の領域にまで拡大し,また国境の枠を越えてフランス以外の地にも波及したから,この汎ヨーロッパ的な潮流を単に中心地たるパリのみに限定するのは不当であろう。イギリスのスウィンバーン,ワイルド,ホイッスラー,ビアズリー,それにラファエル前派の画家たち,イタリアのダヌンツィオ,ロシアのソログープ,アルツィバーシェフ,ブリューソフ,ドイツのゲオルゲを中心とした文学サークル(ゲオルゲ派)なども忘れてはならない。日本では,すでに江戸時代に爛熟した都会の文化を知っていたから,江戸の情調と世紀末のそれとを重ね合わせて享受する気風が芸術家のあいだに生まれ,永井荷風や〈パンの会〉の詩人たち,北原白秋や木下杢太郎や吉井勇などに,そうした特色が顕著に見られる。大正時代のデカダン派としてはさらに谷崎潤一郎,佐藤春夫,郡虎彦の名も挙げておくべきだろう。
→象徴主義 →世紀末
執筆者:澁澤 龍
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