言語学者。モスクワ大学哲学教授S.N.トルベツコイを父としてロシア貴族の家に生まれ,早くから民族誌学に関心をもつ。モスクワ大学を卒業してライプチヒに学んだ後,母校で比較言語学を講ずる。革命を逃れてロストフ大学,ソフィア大学に転じ,22年にはウィーン大学教授。プラハ言語学派の中心人物の一人で《音韻記述への手引Anleitung zu Phonologischen Beschreibungen》(1935),《音韻論要理Grundzüge der Phonologie》(1939)によりプラハ言語学派音韻論の方向を定めた。
1936年に学術誌に発表した論文《音韻対立のための理論の試み》の前後から〈対立〉をとらえる理論を模索し,これが晩年の理論課題となった。そこで彼は音差異を示す項の間の〈共通特性〉に着目するが,この項は“関与特性”のほかに“位置特性”をも含むのである。たとえばlipのlは,nip,tip,chipのn,t,chと対立する音特性(“側音性”)を含み,この特性はpillのllにおいてもそれをpin,pit,pitchのn,t,tchと対立させている(“関与特性”)。しかしlipのlとpillのllは,同じ音特性を共通特性としてもちながら,かつ明るい音色,暗い音色の違いももつが,これはこの言語では対立を作り出さない(“位置特性”)。さて,(1)同じ共通特性をもつ項が位置特性のみで異なる場合,これらの項は直接的にも間接的にも対立しない。それらは同じ音韻単位に含まれる変異音をなすのである。しかし,(2)同じ共通特性をもつ項が,関与特性で異なる場合,たとえそれらが同じ位置で直接対立しなくても(たとえば英語,ドイツ語のh/ŋ),〈間接的〉な音韻対立が成立している(hとŋは共通の同じ仲間(さまざまな子音)に対して,異なった関与特性により対立しているのだから)。
ところで,p/bのごとき2項が,ある位置(語末)で無声のpしか示さなくなると(ドイツ語,ロシア語),この“無声性”はこの位置では関与特性ではなく位置特性となる。すると上の(1)と同じ理由で,このpはp/bのいずれとも音韻対立をなさず,両者の変異音となる。この現象を彼は〈音韻対立の中和〉と呼んだ。ただし彼は3項以上の項の間の対立の中和には触れなかった。
→音韻論
執筆者:渡瀬 嘉朗
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そこで〈こえ〉の標識をもつ/b/を有標項marked,もたない/p/を無標項unmarkedと呼ぶ。二つの音素がその弁別的素性を共有していて,ある素性の有無によってのみ区別される場合をN.S.トルベツコイは欠如的対立と名づけている。同じく鼻腔共鳴をもつ有標項の/m/と,もたない無標項の/b/も欠如的対立をなす。…
… 西ヨーロッパのスラブ学は,前述のウィーンを除けば,ドイツとフランスが中心となっており,ドイツでは古代教会スラブ語を研究したレスキーンAugust Leskien(1840‐1916),ディールスPaul Diels(1882‐1963),《ロシア語語源辞典》のファスマーMax Vasmer(1886‐1962),バルト・スラブ関係研究のトラウトマンReinhold Trautmann(1883‐1951),フランスではインド・ヨーロッパ語学者で《共通スラブ語》のメイエ,ロシア文学研究のマゾンAndré Mazon(1881‐1967)などの名があげられる。なお,ウィーンでは,ロシアの言語学者で音韻論の創始者N.S.トルベツコイが1922年よりスラブ文献学の講座を担当した。第2次世界大戦をきっかけにヨーロッパの有力な学者がアメリカに亡命し,スラブ学は新大陸にも拡大した。…
…1920~30年代のロシア人亡命者の間にみられた一思潮。1920年N.S.トルベツコイ公がブルガリアのソフィアで《ヨーロッパと人類》を発表し,翌年,G.フロロフスキー,P.サビツキー,P.スブチンスキーが加わって,同地で論集《東方への脱出》を出版したときに成立した。彼らはロシア国民をヨーロッパ人ともアジア人とも異なる,ユーラシア人と規定し,この立場からとくにヨーロッパ文化を批判し,ロシア独自の歴史的発展の道を提唱した。…
※「トルベツコイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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