フランスの物理学者。ディプの生れ。文学と歴史を学んでパリ大学を卒業したが,兄モーリスCésar Maurice de Broglie(1875-1960)も出席した1911年の第1回ソルベー会議を契機に,理論物理学の研究を志し,理学部で再び学ぶ。13年に卒業したが,第1次世界大戦のため徴兵されてエッフェル塔で陸軍無線班の任務に服し,除隊後,20年にようやく物理学の研究を再開できた。22年のA.H.コンプトンのX線散乱の実験結果などから光の粒子性が明確になると,光や電子における粒子性と波動性の対応関係の確立を目ざし,その結果,アインシュタインの光量子説の基礎にある式E=hν,p=h/λが,任意の物質粒子や光に適用できる一般式であることを明らかにした(Eはエネルギー,hはプランク定数,νは光の振動数,λは波長,pは運動量)。この物質波(ド・ブロイ波)の理論は,24年に《量子論の研究》と題する学位論文にまとめられ,パリ大学理学部に提出された。アインシュタインは,P.ランジュバンを通じて送られてきたこの論文の草稿を見て,いちはやく新理論の価値を認め,ゲッティンゲンのM.ボルンやチューリヒのE.シュレーディンガーに伝えた。これを契機に,シュレーディンガーは物質波の考えを発展させて,波動力学を展開,また一方,27年に行われたC.J.デビッソンとL.H.ジャーマーの電子線の回折実験などから電子の波動性が検証され,物質波の概念は波動力学の基本概念として揺るぎなきものとなった。これらの業績によりド・ブロイは29年,ノーベル物理学賞を受賞した。1926年と27年には,パリ大学理学部で自由講義を行っていたが,28年ようやく新設のアンリ・ポアンカレ研究所で正式のポストを得て,理論物理学を担当,32年からは,パリ大学理学部の理論物理学教授となった。1930年から50年にかけては,P.ディラックの電子論,新しい光の理論や原子核物理学への波動力学の拡張を試み,また,51年からは再び,量子力学の解釈と観測の理論の問題を論じている。62年に70歳でパリ大学を退いた。その明快な語り口による科学啓蒙書も多数ある。
執筆者:日野川 静枝
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…ただしエレクトロンの名は,1891年G.J.ストーニーが,自然界に存在する電荷の量はある量(電気素量)より小さくは分解できないことを見いだし,この電気素量に対して命名したものである。 電子の本質は質点ではなく波動であり,電子が波動性を示すことは,1923年ド・ブロイによって仮説として提唱され,27年アメリカのデビッソンClinton Joseph Davisson(1881‐1958)らが,ニッケル結晶面による電子線の回折現象を発見したことで実証された。したがって電子は光と同じように干渉,回折などの現象を示し,シュレーディンガー,あるいはディラックの波動方程式で記述される。…
…同様に陽子,中性子なども質点ではなく,波である。このような電子の波,広い意味では陽子などの粒子の波のことを物質波またはド・ブロイ波de Broglie waveという。 1924年ド・ブロイは物質波の説を唱え,粒子としての電子の運動量をpとするとき,その波動の波長λはλ=h/pで与えられることを示した(これをド・ブロイの関係ということがある)。…
※「ドブロイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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