アレクサンドロス大王が最も信頼した側近〈ヘタイロイ〉の部将の一人。クレタ島出身のギリシア人で,王とは少年時代から親友として交わった。前334年以来大王の東征に従軍したが,前半の5年間は小アジア南岸一帯のリュキア,パンフュリア地方の統治をゆだねられて東征軍の後方にとどまり,前329-前328年,当時バクトリア地方に作戦中の王のもとに召致されてからは王と行を共にした。とくに海事に明るく,東征の帰途インダス川下航に際しては全輸送船団の指揮をとった。彼は引き続きインダス河口からペルシア湾奥への航路開拓と沿岸調査のための探検航海にも,選ばれて艦隊指揮官となり,探査を成功させた。そのすぐれた航行の記録内容はアリアヌスの《インド誌》やストラボンの著作に再録されて伝存する。大王の死後は数年間再び小アジア南部統治の任に戻り,後継者の一人アンティゴノス1世に仕えた。
執筆者:大牟田 章
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アレクサンドロス大王の信任もっとも厚かった臣僚の1人。クレタ島出身。とくに水師提督として傑出し、遠征末期のインダス川下航およびペルシア湾までの沿岸航海の指揮をとった。大王のアラビア探検計画にも提督を予定されていた。大王没後はアンティゴノス1世につき、ガザの戦い(前312)において戦死したらしい。航海誌風の述作があったらしいが、それは隠滅し、わずかにアリアヌスの『インド誌』やストラボンの『地理誌』(ともにローマ時代)などの典拠となったと推察される。引用行文の信憑(しんぴょう)性は高い。
[金澤良樹]
前360頃~前312頃
クレタ人。アレクサンドロス大王東征の帰途,その艦隊を指揮してインダス河口からティグリス河口まで航海し,『周航記』を書いた。大王の死後アンティゴノス家のもとで働き,ガザで戦死したらしい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…彼は進路を南に転じてインダス川筋を河口まで下り,次いでアフガニスタン南岸に近いマクラン砂漠を苦難の果てに踏破した後,スーサ,エクバタナ経由で前323年初めバビロンに帰還した。この西帰の過程で部将ネアルコスが王命によって艦隊をひきい,インダス河口からペルシア湾奥まで海路の探査に成功したことは,東征の大きな成果に数えられる。アレクサンドロスはスーサで,留守行政の綱紀退廃をきびしく粛清する一方,彼自身を含めて将兵約1万人の東方人女性との集団結婚式を挙げ,また東方人主体の新帝国軍の編成にも着手している。…
…ギリシアの歴史家,哲学者アリアヌス(アリアノス)がその著作《アレクサンドロスの遠征》に加えた付録。インドの地誌,歴史,およびアレクサンドロス大王の提督ネアルコス指揮下のマケドニア艦隊がインダス河口からティグリス河口に至るまでの航海記録(前326‐前325ころ)を内容とする。ネアルコス提督の報告書,メガステネスのインド見聞記などに資料を得ているので貴重な文献となっている。…
※「ネアルコス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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