カノッサの屈辱(読み)カノッサノクツジョク

デジタル大辞泉 「カノッサの屈辱」の意味・読み・例文・類語

カノッサ‐の‐くつじょく【カノッサの屈辱】

聖職叙任権をめぐって教皇グレゴリウス7世から破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、教皇滞在中の北イタリアのカノッサ(Canossa)城の門前で雪の中を3日間たたずんで赦免を請い、許された事件

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精選版 日本国語大辞典 「カノッサの屈辱」の意味・読み・例文・類語

カノッサ‐の‐くつじょく【カノッサの屈辱】

  1. ( カノッサはCanossa ) 一〇七七年、ドイツ皇帝ハインリヒ四世が聖職叙任権をめぐって教皇グレゴリウス七世と争って破門され、教皇が滞在した北イタリアのカノッサ城の前に三昼夜立ちつくして許された事件。

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改訂新版 世界大百科事典 「カノッサの屈辱」の意味・わかりやすい解説

カノッサの屈辱 (カノッサのくつじょく)

1077年,ドイツ王(のち神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に屈服し赦免を得た事件。叙任権闘争クライマックスをなす。両者の争いは1076年初頭,破門・廃位宣言の応酬で開始されたが,かねてから歴代諸皇帝の集権政策に不満を抱くドイツ諸侯は,王が教皇から破門を宣せられると,これを王権抑制の好機と考え,翌年2月2日までに破門が解かれぬ場合は王を廃位すると決議した。王はこの危機を回避するため,77年1月末,北イタリアのアペニノ山中のカノッサCanossa城に滞在する教皇を訪ね,雪中3日間悔悛の衣をまとい裸足で城門の前にたたずんで教皇に哀願し,ようやく破門を解いてもらった。赦免を得た王は攻勢に転じ,その後事態は王に有利に展開した。しかしこの事件は,皇帝権がローマの至上権に屈し,王が諸侯との争いに教皇を仲裁者と認めたことを示し,教皇権の勝利を意味する。この事件が〈カノッサの屈辱〉と呼ばれるのもそのためである。
叙任権闘争
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百科事典マイペディア 「カノッサの屈辱」の意味・わかりやすい解説

カノッサの屈辱【カノッサのくつじょく】

中世叙任権闘争で皇帝権が教皇権に屈服した象徴的事件(1077年)。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は1076年教皇グレゴリウス7世の廃位を要求,逆に破門された。ドイツ諸侯の反乱を恐れる皇帝は北イタリアのカノッサCanossaに教皇をたずね,恭順の意を表して破門を解かれた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カノッサの屈辱」の解説

カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく)
Canossa

1077年,叙任権闘争過程で皇帝権が教皇権に屈服した事件。ドイツ皇帝ハインリヒ4世は76年教皇グレゴリウス7世と争い,教皇の廃位を要求して破門された。皇帝はドイツ諸侯の支持に確信なく,廃位されることをおそれて,北イタリアのカノッサ城に滞在中の教皇を訪ねた。改悛を示す服装で3日間待った後,赦免を求めて許され,破門を解除された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カノッサの屈辱」の意味・わかりやすい解説

カノッサの屈辱
カノッサのくつじょく
Humiliation at Canossa

叙任権闘争 (→叙任権論争 ) の過程で,1077年1月,神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門の赦免を求めて,北イタリアのカノッサ城に滞在中のローマ教皇グレゴリウス7世の前に屈服した事件。雪のなかで皇帝は3日間城外にたたずんだという。赦免を得た皇帝はまもなく教皇に反撃,教皇を捕え,皇帝,教皇の抗争はそののち約半世紀間続いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カノッサの屈辱」の解説

カノッサの屈辱
カノッサのくつじょく
Canossa

1077年に起こった,神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の争い
教皇権が皇帝権に勝利した事件で,1075年,教皇が俗人(皇帝)の聖職叙任権を否認したのが発端。教皇に反対したハインリヒは破門を宣告された。臣下や諸侯に見捨てられた皇帝は,北イタリアのカノッサに滞在中の教皇に懇願し,城外の雪中に3日間立ちつくして破門を許された。のちハインリヒはライン諸都市の援助などで諸侯の鎮圧に成功し,1084年には教皇をローマから追放した。

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デジタル大辞泉プラス 「カノッサの屈辱」の解説

カノッサの屈辱

日本のテレビ番組。フジテレビ制作の情報バラエティ。放映は1990年4月~1991年3月。初回放映時間は火曜日0時40分(月曜深夜)。出演:仲谷昇。ハンバーガーやシャンプーなど現代のさまざまな商品や流行の歴史を、教授による講義という設定で教育番組風に紹介する番組。

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とっさの日本語便利帳 「カノッサの屈辱」の解説

カノッサの屈辱

中世において皇帝権が教皇権に屈服した、最大かつ最も象徴的な事件。一〇七七年、対立していたローマ教皇グレゴリウス七世に破門を宣告された神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ四世は、北イタリアのカノッサ城の教皇を訪れ、三日間、雪の上で赦免を請い、ようやく破門を解かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カノッサの屈辱」の意味・わかりやすい解説

カノッサの屈辱
かのっさのくつじょく

カノッサ事件

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世界大百科事典(旧版)内のカノッサの屈辱の言及

【キリスト教】より

…先にクリュニーの修道士であったグレゴリウス7世は,教会法学者ペトルス・ダミアニの熱烈な支持をうけて,1076年のウォルムス会議でドイツ皇帝ハインリヒ4世を破門にした。翌年この皇帝がカノッサに赴いて悔悛した話はあまりに有名である(カノッサの屈辱)。闘争は1122年のウォルムス協定および翌年の第1ラテラノ公会議で,ドイツ皇帝は教会からうける指輪(司教権を象徴するもの)と司牧杖を放棄し,他方教皇は国王の選挙に参加しないとの協定を結んで終息した。…

【グレゴリウス[7世]】より

…この破門宣告による事態悪化と失脚を恐れた皇帝は,3日間雪の中にたたずんで教皇の赦免を乞わざるをえなかった。世にいう〈カノッサの屈辱〉である。しかし破門を解かれた皇帝は再び教皇を廃位し,対立教皇にクレメンス3世(在位1084‐1100)を立て,ローマの教皇を攻囲した。…

※「カノッサの屈辱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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