改訂新版 世界大百科事典 の解説
バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ
Ballet Russes de Monte Carlo
ディアギレフの病死によって解散(1929)したバレエ・リュッスの後を継いで組織されたフランスのバレエ団。コサックの大佐ド・バジールColonel de Basil(1888-1951)とモンテ・カルロ歌劇場支配人ブルムRené Blum(1878-1942)によって1932年モンテ・カルロにおいて第1回公演が行われた。ディアギレフの後を継ごうとした多くの企てのなかで,このバレエ団が最も成功した。その原因は,ディアギレフ一座の支え手の一人であったグリゴリエフSergei Grigoriev(1883-1968)を舞台監督に迎え,同じく主役舞踊手であったA.ダニロワ,チェルニショワ,ボイジコフスキーらを擁して演目の水準の維持,座員の質の向上を図ったことである。また,史上初めてという10代前半,またはそれに準ずる踊り手,T.トゥマーノワ,バロノワ,リャブーシンスカの3人をベビー・バレリーナとして主役に抜擢し,人気を博したことにある。演目はディアギレフの遺産を踏襲したほか,マシンのシンフォニック・バレエ《前兆》《コレアルティウム》(ともに1933),《幻想交響楽》(1936),《赤と黒》(1939),オッフェンバックの音楽による喜劇的な《パリのにぎわい(よろこび)》(1938),前衛的な《子供の遊戯》(1932),《バッカナール》(1939),バランチンのアブストラクト・バレエ《ダンス・コンセルタント》(1944),フォーキンの《愛の試練》(1936),《パガニーニ》(1939),ニジンスカの《百の接吻》(1935),一座の育てたリシンDavid Lichine(1910-72)の《卒業舞踏会》(1940)などバレエ史に残る作品を多く初演した。しかし運営面では問題が多く,発足後まもなく創立者の一人ブルムが去り,38年からはマシンが主宰者となる。ド・バジール大佐も分かれて〈オリジナル・バレエ・リュッス〉を創立するが,両者は共通の演目をもち,踊り手の交流も頻繁であった。バレエ団の最盛期はともに40年代の半ばまでであったが,ディアギレフの推進したバレエの近代化の路線を継承発展させ,バレエになじみの薄かった北アメリカの地方都市,ラテン・アメリカ,オーストラリアなどを訪れてその紹介に努めた功績は大きい。バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロは1962年(オリジナル・バレエ・リュッスは1952年)まで存続した。
執筆者:薄井 憲二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報