ピエロデラフランチェスカ(その他表記)Piero della Francesca

デジタル大辞泉 の解説

ピエロ‐デラ‐フランチェスカ(Piero della Francesca)

[1416ころ~1492]イタリア画家。理知的な空間構成と的確な人物把握、清澄な色彩特色とし、アレッツォサンフランチェスコ聖堂壁画聖十字架物語」は15世紀ルネサンス絵画の傑作

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精選版 日本国語大辞典 の解説

ピエロ‐デラ‐フランチェスカ

  1. ( Piero della Francesca ) 一五世紀イタリア、ルネサンス期の画家。理知的で整然とした空間構成と静的で明快な人物把握に特徴がある。遠近法など美術理論に関する著作がある。一四九二年没。

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

ピエロ・デラ・フランチェスカ
Piero della Francesca
生没年:1420ころ-92

イタリアの画家。彼の時代には他の画家たちに,それほど強い影響を及ぼすことはなかった。また彼は,絵画作品よりも遠近法などの理論家としてその名を知られていたが,近代になってその芸術が高く評価され,15世紀イタリアを代表する革新的な画家の一人に数えられるに至った。

 イタリア中部のアレッツォに近いボルゴ・サン・セポルクロBorgo San Sepolcroに生まれる。1439年にフィレンツェサンタマリア・ヌオーバ病院内のサンテジディオ礼拝堂壁画装飾の仕事で,ドメニコ・ベネツィアーノ助手として初めてその名が記録に現れる。そこで彼はドメニコ・ベネツィアーノから絵画における光と色彩の調和を学び,さらにフィレンツェではマサッチョウッチェロフラ・アンジェリコらフィレンツェ派のモニュメンタルな形態や遠近法に関して,多くの示唆を受けたことが想像される。42年に郷里の評議員に選出されている。45年に郷里の〈ミゼリコルディア信心会〉から多翼祭壇画の制作依頼を受け,約10年近い歳月を費やして,それを完成させた。この〈ミゼリコルディア祭壇画〉(サン・セポルクロ美術館)に見られる人物の堅固な造形形態はフィレンツェの画家たちからの影響でもあるが,すでに幾何学への強い関心もうかがえ,自己の様式を確立しつつあることが知られる。この間に制作した《キリスト洗礼》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)では,ドメニコ・ベネツィアーノから得たみずみずしい色彩感覚と光の効果によって,明るい透明感のある画面をつくり上げている。

 51年にリミニテンピオ・マラテスティアーノに壁画《聖シジズモンドとシジズモンド・マラテスタ》を制作した。翌52年からビッチ・ディ・ロレンツォの後を継いで,アレッツォのサン・フランチェスコ教会の内陣に〈十字架伝説〉を描く。この壁画連作は彼の円熟期に属する代表作で,人物を抽象的な幾何学形態--球形や卵形の顔,円筒形の腕や胴--に単純化し,画面に雄大な記念碑的特性を与えるとともに,洗練された色彩を巧みに対比させ,近代人の芸術観に共鳴する新鮮な魅力を生み出している。この時期に描かれた他の作品としては,主題として珍しい《出産の聖母》(モンテルキ,墓地礼拝堂)や,登場人物の確認をめぐっていまだに論争がなされている《キリストの笞打ち》(ウルビノ,マルケ国立美術館)などがある。フェラーラ,ローマなどでも活躍し,晩年はウルビノで,フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの庇護を受け,《セニガリアの聖母》(ウルビノ,マルケ国立美術館)や〈モンテフェルトロの祭壇画〉(ミラノ,ブレラ美術館)を描き,また数学に対する彼の深い関心を示す《絵画の透視図法》という書を著し,モンテフェルトロ公に献じている。
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百科事典マイペディア の解説

ピエロ・デラ・フランチェスカ

イタリアの画家。トスカナ地方南部に生まれ,フィレンツェでドメニコ・ベネツィアーノに師事し,初期ルネサンス絵画の大家となった。特に,線遠近法のみならず空気遠近法をも追求した点で,時代の先駆的存在。画風は動感に乏しいが,荘重でモニュメンタルな効果を示している。代表作に《ミゼリコルディア祭壇画》(1445年―1462年ころ,ボルゴ・サンセポルクロ,市立美術館蔵),《キリストの洗礼》(1450年―1455年,ロンドン,ナショナル・ギャラリー蔵),アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂の壁画連作《聖十字架物語》(1452年―1466年)などがある。遠近法に関する著作も残した。
→関連項目ウンブリア派クートーシニョレリバルチュスペルジーノメロッツォ・ダ・フォルリ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ピエロ・デラ・フランチェスカ
Piero della Francesca

[生]1416./1417頃. ボルゴ・サンセポルクロ
[没]1492.10.12. ボルゴ・サンセポルクロ
イタリアの画家。本名 Piero di Benedetto dei Franceschi。地方画家としてシエナ派の画風を示していたが,フィレンツェに滞在中独自の画風を開き,1442年までに生地ボルゴに戻り,主として宗教画を描いた。1449~50年頃にはフェララ,その後アレッツォなどの聖堂の祭壇画やウルビノ公の肖像画を制作。1459~60年はローマ,1460年代および 1470年代にはしばしばウルビノを訪れたが,晩年は視力を失ったといわれる。作品は『キリストの洗礼』(1448~50頃,ロンドン,ナショナル・ギャラリー),『セニガリアの聖母』(ウルビノ,国立マルケ美術館)など。著書に『透視図法』De prospectiva pingendiがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ピエロ・デラ・フランチェスカ
ぴえろでらふらんちぇすか

ピエロ・デッラ・フランチェスカ

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世界大百科事典(旧版)内のピエロデラフランチェスカの言及

【十字架伝説】より

… これらの伝説は西洋世界に導入されて美術作品の主題となった。初期の例は8,9世紀より見られるが,最もよく知られている例としてピエロ・デラ・フランチェスカによる一連のフレスコ画がある(アレッツォ,サン・フランチェスコ教会,1460ころ)。【小林 典子】。…

【ドメニコ・ベネツィアーノ】より

…しかし40年代後半の作と思われる〈サンタ・ルチア・デイ・マニョーリの祭壇画〉に見られる豊かで変化に富んだ色彩,自然の光の巧みな処理,正確な遠近法は,彼がすでにルネサンスの画家であることを示している。彼の色彩や遠近法への強い関心は,かつて助手であったピエロ・デラ・フランチェスカに受け継がれ,発展する。【生田 円】。…

※「ピエロデラフランチェスカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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