ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェルディナンド2世」の意味・わかりやすい解説
フェルディナンド2世[両シチリア王国]
フェルディナンドにせい[りょうシチリアおうこく]
Ferdinando II, re delle Due Sicilie
[没]1859.5.22. カセルタ
両シチリア王 (在位 1830~59) 。 1830年父王フランチェスコ1世を継いで即位。当初は自由主義的改革の傾向をみせたが,すぐに専制政治に移った。 48年1月のシチリア革命の成功とそれに続くナポリ自由主義派の運動に押されて,同年2月憲法を発布したが,5月には自由主義派から主導権を奪い返し,オーストリアに対するイタリア独立戦争に加わっていたナポリ軍隊も呼返した。 49年以降は以前にも増して専制を強め,自由主義派を徹底的に弾圧してリソルジメント運動に敵対したばかりでなく,イギリスやフランスから嫌われて国際的にも孤立した。 59年に没して子のフランチェスコ2世が即位したが,60年の G.ガリバルディの遠征によって両シチリア王国は崩壊することになる。
フェルディナンド2世[メディチ家]
フェルディナンドにせい[メディチけ]
Ferdinando II
[没]1670.5.24. フィレンツェ
第5代トスカナ大公(在位 1621~70)。本名 Ferdinando de' Medici。父コジモ2世を継いで 1621年大公となったが,幼年のために祖母と母とが摂政役を務め,この期間に大公の支配権が弱化した。成年に達して直接統治が可能となってからも,弱化した大公の諸権限を回復できず,加えて飢饉や伝染病の流行で経済状態が悪化し困難な政治が続いた。おりから勃発した三十年戦争による被害を避けるため,イタリア諸国を誘って中立連合を結成する努力を重ねた。(→メディチ家)
フェルディナンド2世[ナポリ王]
フェルディナンドにせい[ナポリおう]
Ferdinando II, d'Aragon, re di Napoli
[没]1496.10.5. ナポリ
アラゴン家出身のナポリ王 (在位 1495~96) 。フェルディナンド1世の甥でカラブリア公となる。 1494年父アルフォンソ2世のナポリ王即位に敵対するフランス王シャルル8世と交戦のため,北イタリアに遠征したが,不首尾に終った。 95年1月不人気の父王を継いでナポリ王に即位。しかしシャルル8世のナポリ占領でメッシナに退いた。その後スペイン軍とベネチア艦隊の支援を得て反撃に転じ,96年夏までに王国の奪回に成功,同年秋に夭折した。人文主義的教養のある人物としても知られ,また民衆からも親しまれ,フェルランディーノ Ferrandinoと呼ばれた。
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