ブルシェンシャフト
Burschenschaft
19世紀ドイツの学生結社。対ナポレオン解放戦争に志願兵として参戦した学生たちが大学へ復帰後,メッテルニヒ体制(ウィーン体制)に覆われた祖国の現状に反対し,ドイツの自由と統一を目標に掲げて各大学に組織した。その最初のものは1815年6月イェーナ,ギーセンの両大学につくられ,それぞれ左右両派を代表した。つまり,ブルシェンシャフトの主流をなす前者は,ドイツ統一を〈精神的修養,ドイツ的風習の復興,ホーエンシュタウフェン帝国への復帰〉という方法で実現しようとし,近代的ナショナリズムとゲルマン至上主義を分かち難く結びつけていたのに対し,〈ギーセンの黒衣派〉〈絶対派〉とも呼ばれた後者はカールおよびアドルフ・フォレンの両兄弟の指導のもと共和主義を掲げ,直接行動を主張した。
ブルシェンシャフト運動がその最大の高揚を迎えたのは,17年10月17~18日のワルトブルク祭である。ライプチヒ会戦4周年,宗教改革300年を記念して,アイゼナハ郊外のワルトブルク城に全ドイツのブルシェンシャフト員460名以上を集めてドイツ統一のための大示威集会が催された。この集会は,情熱のこもった演説こそ数多く行われたものの,それ自体政治的には他愛のないものであった。しかし参会者の一部が興奮のあまり,当時反動的,非ドイツ的と目されていた諸人物の著書を焚書に付すという事態に及んで,ドイツ連邦諸政府の疑惑を招くところとなった。翌18年10月のイェーナにおける代表者会議で,〈全ドイツ・ブルシェンシャフト連合〉が結成されるが,19年3月23日ギーセンの〈絶対派〉の一員ザントKarl Sand(1795-1820)がロシアのスパイとの風評のあった反動的劇作家コツェブーを暗殺したことを口実として,それまでブルシェンシャフト弾圧の機会をうかがっていたメッテルニヒは,同年8月カールスバート決議をもってブルシェンシャフト間の連絡を禁止し,大学に対する監督の強化を指令した。20年代以降ブルシェンシャフトは秘密結社の形をとり,またさまざまに装いを変えながら,48年革命まで存続することになる。
執筆者:松岡 晋
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ブルシェンシャフト
ぶるしぇんしゃふと
Burschenschaft ドイツ語
ドイツにおける自由主義運動の重要な一翼を担った学生団体。若者仲間の意で、「学生組合」ともいう。1815年6月イエナ大学で、従来出身地別に構成されていた学生団体ラントマンシャフトLandmannschaftの分立主義を否定して、単一の組織として結成された。中心となったのは、リュツォー義勇軍に属して対フランス解放戦争を戦った帰還学生で、その軍服にちなんで黒・赤・金旗を採用し、名誉・自由・祖国を標語としてドイツの自由と統一を主張した。運動は急速に拡大し、17年のワルトブルク祭を契機に翌年10月全ドイツ・ブルシェンシャフトが結成され、14大学がこれに参加してドイツ自由主義運動の最初の高揚期を形成した。メッテルニヒは、急進派学生K・L・ザントによる劇作家コッツェブーの暗殺事件を機に、19年カールスバートの決議を連邦議会に行わせ、ブルシェンシャフトを禁止して運動を厳しく弾圧した。しかし、以後も秘密結社によって運動は続けられ、32年のハンバハ祭以後は黒・赤・金旗はドイツ自由主義運動全体の象徴となった。40年代には「進歩主義運動」を形成して大学民主化闘争を行い、48年の革命には指導者の一母体として積極的に参加したが、革命の敗北後政治的意味を失った。
[岡崎勝世]
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大学事典
「ブルシェンシャフト」の解説
ブルシェンシャフト[独]
ナポレオン戦争からの帰還兵であったドイツの学生たちがウィーン体制に反発し,自由とドイツの統一を求めて結成した学生結社(ドイツ)。ナポレオン戦争後,戦後処理のためにイギリス,フランス,プロイセン,オーストリアなどヨーロッパ諸国の代表によってウィーン会議が開かれ(1814年9月~15年6月),フランス革命以前の主権と領土を正統とする正統主義と,ヨーロッパの大国間の勢力衡を原則としたウィーン体制(1815~48年)が敷かれることになった。この体制に反発した学生たちは,まずイエーナ大学に最初の学生結社を結成した。その後,学生結社はドイツ各地の大学につくられ,自由とドイツの統一を求めるブルシェンシャフト運動が各地に広がった。しかし,1817年のルターの宗教改革300年祭に各地から学生が集結したことをきっかけに,オーストリアの宰相メッテルニヒらはブルシェンシャフト運動がウィーン体制の維持を危うくするとして,その弾圧に乗り出した。1819年には劇作家のコッツェブーが急進派の学生によって暗殺されたことで,ブルシェンシャフトの本格的な弾圧を申し合わせたカールスバード決議がメッテルニヒらによって採択された。これにより,ブルシェンシャフトは徹底的に弾圧され衰退した。
著者: 髙谷亜由子
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百科事典マイペディア
「ブルシェンシャフト」の意味・わかりやすい解説
ブルシェンシャフト
〈若者たちの組合〉の意。近代ドイツの学生組織。1815年初めてイェーナ大学で組織されたころは単なる友好団体だった。間もなく各大学でも組織され,ドイツの自由と統一を要求する運動を展開。1817年ワルトブルクで全国的組織が成立。反動的なメッテルニヒ体制と衝突し,1819年カールスバート決議で禁圧された。
→関連項目学生運動|カール・アウグスト|ワルトブルク
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ブルシェンシャフト
Burschenschaft
学生同盟とも呼ばれる。ナポレオン戦争後ドイツの大学生が結成した団体。 Burscheは「若者」「学生」の意。従来の出身地方別学生団体がもつ中世以来の弊風を打破するため,全学生を対象として,1815年6月イェナ大学で創設された。祖国の精神的統一と学園の自由を高唱し,各地の 14大学が加入してメッテルニヒ体制と衝突。 17年 10月 18日,ワルトブルク (→ワルトブルク祝祭 ) の森における宗教改革 300年祭と,ライプチヒ戦勝祝賀の祭典に際し,全ドイツ・ブルシェンシャフトの設立を宣言。その後,極左派の K.ザントが,作家 A.コッツェブを暗殺するに及び,ドイツ政府はカルルスバートの決議で,ブルシェンシャフトを公式に禁止した。その後秘密結社としてのみ存続し,七月革命,二月革命で一時的な示威運動を起したが,政治的な意義はほとんど失われた。
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ブルシェンシャフト
Burschenschaft
19世紀初め,ウィーン体制下にドイツの統一と学園の自由を求めた学生組合
1815年にイエナ大学につくられ,各地の大学に波及。1817年ルターの宗教改革300年祭とライプチヒ戦勝記念を兼ねたワルトブルクの祝典で,全ドイツ−ブルシェンシャフト結成を宣言した。メッテルニヒが1819年カールスバードの決議を発して弾圧したため衰退。
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ブルシェンシャフト
19世紀のドイツで学生により組織された結社。対ナポレオン解放戦争に兵士として参加した学生たちが帰還後に組織した団体で、1815年にイエナ大学で最初の組織が結成。以後各地の大学に同様の動きが広がり、ドイツ自由主義運動の象徴的存在となる。日本語では「学生同盟」ともいう。
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世界大百科事典(旧版)内のブルシェンシャフトの言及
【イェーナ】より
…ゲーテもしばしばここを訪れた。1806年[イェーナの戦]でプロイセン軍がナポレオンの率いるフランス軍に大敗を喫したのち,15年イェーナ大学学生はドイツの自由と統一を求める学生団体[ブルシェンシャフト]を全ドイツに先がけて結成した。41年K.マルクスはこの大学で学位を得た。…
【ウィーン体制】より
…この段階で抵抗の中心となったのは学生であり,その政治目標はリベラルな立場でのドイツ統一であった。1815年イェーナで学生の同郷人組織[ブルシェンシャフト]が結成され,17年10月には全ドイツの12の大学から468人の学生がワルトブルクに集まり,〈一つのドイツ〉を求めて示威運動を行った。この運動は革命的性格を持つものではなかったけれども,ドイツ連邦はそれに対して権力的に対応した。…
【カール・アウグスト】より
…ゲーテを招いて大臣に任用し,両人相携えて一地方都市ワイマールをドイツの精神文化の中心となした。また〈出版の自由〉を認める憲法を早期に発布し(1816),領内イェーナ大学に発するブルシェンシャフトの運動を保護したことでも知られる。小国の枠にはまり切らぬ剛腹の君主であった。…
【ワルトブルク】より
…1714年以後,ザクセン・ワイマール領。宗教改革300周年の1817年に,学生団体〈[ブルシェンシャフト]〉の祝祭(ワルトブルク祭Wartburgfest)が,この古城で開かれた。【田中 真造】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」