改訂新版 世界大百科事典 「ヘブライ神話」の意味・わかりやすい解説
ヘブライ神話 (ヘブライしんわ)
ヘブライ語による神話は,前10世紀以降初めて散文の形で文字化され,旧約聖書の《創世記》の人類太古史として,今日に伝えられている。〈天地創造〉〈人類の誕生〉〈カインとアベル〉〈ノアの洪水〉〈バベルの塔〉などがそれである。これらは古代オリエント文学同様,本来が口承文学であるため,構造および言語において詩に近い形式を有している。いずれも,古代イスラエル王朝時代に,標準的散文体による公式記録の史書として製作されたとみなされる。原資料については,重複する用語,文体,テーマなどから,少なくとも3種類の資料,すなわち〈J資料(ヤハウェ資料)Jahwistic Source〉〈P資料(祭司資料)Priestly Source〉〈E資料(エロヒム資料)Elohistic Source〉が存在すると推定され,今日では,それが学界の定説となっている。いずれも伝承,口碑,聖伝からなると想定され,地理的には,パレスティナ北部および南部の聖所の起源に関する口伝の類に属するものが多い。
天地創造の神話についていえば,1章は2章に比べて祭儀的傾向が顕著であり,人間が神の似姿として創造されたこと,そして神が人間の将来を祝福されたことが強調されている。それに対し,2章においては,神は擬人化され,神の命令に反して,〈生命の樹〉の実を食べた人間が,神のようになることを恐れて,人間を楽園(エデンの園)から追放するという,いわゆる〈失楽園(パラダイス・ロスト)〉の物語が語られる。こうしたプロットにしたがって,1章では,地上のすべての木の実が人間に無条件に与えられているのに対して,2章では,〈善悪を知る木〉の実は食べることを許されないという内容上の混乱が生みだされてくる。全体として,5章は内容的に1章の反復であり,そこではアダム以降の年代記,系図などが詳細な数字でもって示される。6章9~22節から始まるノアの系図,そして9章1節のノアの子孫への祝福も,5章の続編とみなすことができる。一方,2章の楽園喪失からカインとアベルの兄弟相克のドラマに続く一連の物語は,その独特な心理描写によって物語に写実性と詩的幻想を与え,先に指摘した1章および5章,6章にみられる系図をはじめとする祭儀的文体とは趣の異なった世界を現出している。
こうした相違に加えて,1章では,神の呼称が〈シャダイ〉(全能者)であるのに対し,2章では〈ヤハウェ〉(主)という神名が用いられている。こうした基本的な相違に基づいて,前者がP資料,後者がJ資料と名付けられた。歴史的にはJ資料が前10~前9世紀,P資料は前6~前5世紀ごろと推定される。以下《創世紀》中の各資料の個所を示せば,次のようになる。J資料=〈天地創造〉(アダムとイブ,カインとアベル)2:4b~4:26,〈ノアの洪水〉5:29,6:1~8,7:1~8:22(Pを含む),9:18~27,〈ノアの子孫〉10:8~19,24~30,〈バベルの塔〉11:1~9。P資料=〈天地創造〉(アダムからノアまで)1:1~2:4a,5:1~32(Jを含む),〈ノアの洪水〉6:9~10:32(Jを含む),〈ノアの系図〉11:10~32。
J,P資料に述べられた〈天地創造〉〈ノアの洪水〉〈バベルの塔〉などの文学が,口伝であることは先に述べたとおりだが,それはイスラエル民族が独自に生みだした伝承ではなく,古代バビロニアの神話との密接な関連のもとに,むしろそれらを素材として製作されたものであることは疑いえないところである。たとえばバビロニアのマルドゥク神による天地創造神話や牧畜神と農耕神との闘争物語,《ギルガメシュ叙事詩》の大洪水物語など,比較神話学的にみて両者にみられる素材の共通性は疑問の余地がない。したがって,ヘブライ神話の特徴は,むしろ素材そのものの独自性に対する強調にではなく,その解釈に求められるというべきであろう。事実,後世に登場したイスラエルの預言者をはじめ,多くの聖書記者たちは,これらの神話に対する彼ら独自の解釈によって,ヘブライ的と呼ばれる宗教思想を展開し,歴史哲学的な神と人間に対する観念を提示していったのである。新約聖書の著者たちもその例外ではない。
→シリア・カナン神話
執筆者:山形 孝夫
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