ドイツの天文学者。実地天文学の定礎者。ハノーバー近郊のミンデンに生まれる。公務員の子で、大学をあきらめ、ブレーメンの貿易商社員となる。航海術の基礎である数学と天文学を勉強し、1804年にハリー彗星(すいせい)の軌道を計算し、1807年の回帰を正確に予報した。これによってオルバースの推挙を受け、リリエンタール市立天文台の助手となる。ブラッドリーの恒星観測記録を整理し、各種の天文定数を改新した。1810年ケーニヒスベルク大学(現、イマヌエル・カント・バルト連邦大学)の天文学教授に招かれ、大学付置天文台の建設に参画し、1813年完成と同時に台長に就任し、終生、研究の本拠とした。1817年、三体問題の理論的処理のためベッセル関数を案出し、1824年惑星摂動のため、同関数を拡張完成した。1821年から1833年にかけて、南緯15度より北緯45度にわたる9等星以上の恒星の組織的観測を指導。観測値に個人差、器械差、歳差、章動、光行差などの補正値を計入して、7万5000個の恒星位置の決定に画期的に精度を向上させた。1831年東ロシア地域の子午線測量を遂行して、地球楕円(だえん)体の扁率(へんりつ)を299分の1と定めた。1838年ヘリオメーター(測微角計)を用いて、はくちょう座61番星の年周視差0.314秒角を検出し、地動説の決め手と恒星距離決定の足掛りをつくることに成功。1844年シリウス星の波状固有運動を検出して、未知伴星を予知したが、これこそその18年後に観測定された白色矮星(わいせい)第一号であった。
[島村福太郎]
ドイツの天文学者。ベッセル関数やベッセル不等式など数学の業績でも知られる。ミンデンに生まれケーニヒスベルク(現,カリーニングラード)に没する。初め商業を志して15歳のときブレーメンの有力な商会に徒弟として入ったが,計算に長じ,読書によって海洋航法に習熟,さらに六分儀によって船の位置を定める方法などの研究から天文学や数学を勉強するようになった。1804年ハリーすい星の軌道計算をH.W.M.オルバースに送って才能を認められ,06年シュレーターJ.H.Schröterの私設天文台助手となった。09年にプロシアのウィルヘルム3世がケーニヒスベルクに天文台を建設し,ベッセルはその台長に任命され,かつC.F.ガウスの申請によってゲッティンゲン大学から博士の学位を贈られた。次いで12年ベッセルはベルリン科学アカデミー会員に選定された。
J.ブラッドリーの観測結果の整理から,恒星の位置,固有運動を正確に与え,38年にははくちょう座61番星の年周視差測定に成功し,恒星までの距離が求められるようになった。
執筆者:吉田 耕作
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…W.ハーシェルが宇宙構造を考えたときには恒星への距離についての正確な知識はなかった。恒星への距離が遠いために三角測量によるふつうの方法はひじょうに困難であったが,19世紀初めにドイツのF.W.ベッセルは精密な観測器械を使用し,はくちょう座61の視差測定に成功し,恒星距離を求める最初の成功を得た。
[観測方法の発達]
ガリレイが初めて用いた望遠鏡は屈折望遠鏡であったが,W.ハーシェルは大きな反射望遠鏡の作製に成功,多くの天文学上の業績をあげた。…
…νを任意の複素数とするとき,2階の線形常微分方程式,をベッセルの微分方程式という。νが整数(0,±1,±2,……)でないときは,は0<|x|<∞で収束し,(1)の解となる(Γ(ν)はΓ関数)。…
※「ベッセル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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