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オーストリアの指揮者。20世紀を代表する大指揮者の1人。オーストリア共和国音楽総監督の称号をもつ。生地グラーツの歌劇場練習指揮者としてスタート、1917年同歌劇場指揮者となり、以後、ミュンヘン、ダルムシュタット、ハンブルク、ドレスデン各歌劇場の指揮者、音楽監督、総監督を歴任。この間R・シュトラウスと親交を結び、そのオペラ上演に尽力、またダルムシュタット時代には現代作品を積極的に紹介して注目された。43~45年および54~56年ウィーン国立歌劇場の総監督を務め、その後はバイロイト、メトロポリタンなどに招かれて自由な活動を続けた。一方、コンサート活動も活発で、1933年ウィーン・フィルを初めて指揮して以来、この名門と密接な関係をもち、67年その名誉指揮者となる。ベルリン・フィルをはじめ世界各地の名門オーケストラに客演、揺るぎない名声を確立した。
1963年(昭和38)ベルリン・ドイツ・オペラと初来日、その後75年、77年ウィーン・フィルと、80年ウィーン国立歌劇場と来日、いずれも多大の感銘を与えた。レパートリーは、ごく少数の作品を除きドイツ音楽に限られていたが、つねに作品の本質を志向する真摯(しんし)な表現と強靭(きょうじん)な構成力に独特の味わいがあった。
[岩井宏之]
『F・エンドラー著、高辻知義訳『カール・ベーム』(1983・新潮社)』
ドイツのフルート奏者、フルート製作者、金細工師、製鉄業者。主としてミュンヘンで活躍した。金細工師の父の影響で加工技術に幼少から才能を示し、17歳にしてすでに当時のフルートの機構に不満を覚え、改作を試みた。これがカペラーの目に留まり、正式の製作技術を教授されることになった。宮廷音楽家としての活躍、パリ、ロンドンへの演奏旅行といった音楽実践に裏づけられた楽器改良の視点は、先細の内管をくふうして柔らかい音色を求めたり、指孔の操作をすばやく効果的に行うためのキー(鍵)機構の考案へと向けられた。1847年には、その前の10年間の製鉄工場長としての雑務から解放されてフルートに専念できたため、今日「ベーム式」として知られる型の基本を完成した。
[山口 修]
ドイツの作曲家、オルガン奏者。オールドルフ近郊のホーエンキルヒェン生まれ。校長兼オルガン奏者だった父から音楽教育を受けたが、1675年に父が世を去ると、ゴールトバッハのラテン語学校を経てゴータのギムナジウムで学んだ。84年イエナ大学に入学、93年までにハンブルクに移っている。98年、クリスティアン・フローアの後任としてリューネブルクの聖ヨハネ教会のオルガン奏者に就任し、1733年5月18日に同地で没するまでその職にとどまった。1700~02年に同地のミカエル学校で学んだ若きバッハに、とくにコラール前奏曲の書法において多大な影響を与えた。オルガン曲、クラビア曲、カンタータ、モテットのほか、かつてはヘンデル作とされていたポステルの受難詩による『ヨハネ受難曲』(1704)を残している。
[樋口隆一]
オーストリアの指揮者。グラーツに生まれ,同地の音楽院卒業。グラーツ歌劇場練習指揮者として指揮活動を始め,1917年デビュー。以後ミュンヘン,ダルムシュタット,ハンブルクの歌劇場を経て,34年から9年間ドレスデン国立歌劇場音楽総監督を務める。43年から2年間と54年から2年間はウィーン国立歌劇場音楽総監督。64年オーストリア音楽総監督の称号を受け,67年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者の称号を贈られた。64年以来来日4回。ドレスデン時代にR.シュトラウスと親交を結び,彼のオペラ《無口な女》などの初演を指揮。レコードではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と組んでモーツァルトの交響曲の世界初の全曲録音を行っている。ドイツ正統派の指揮者として定評があった。
執筆者:大木 正興
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