ホンタイジ(読み)ほんたいじ(英語表記)Hontaiji

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホンタイジ」の意味・わかりやすい解説

ホンタイジ
ほんたいじ / 皇太極
Hontaiji
(1592―1643)

中国、清(しん)朝第2代の皇帝在位1626~43)。諡号(しごう)は文皇帝、廟号(びょうごう)は太宗。太祖ヌルハチの第8子。1626年太祖の死後議政にあずかるベイレに推戴(すいたい)されてハン位についた。即位の翌年、明(みん)の武将毛文竜討伐を名目として朝鮮に侵入し、これを降伏させて義州に定期市を開かせた。ついで明との貿易の新たな窓口を求めてモンゴル高原にも進出し、29年には長城を越えて北京(ペキン)を包囲し、明の皇帝に講和を申し入れたが実現しなかった。35年には内モンゴルを平定した。

 彼は太祖とは異なり、多数の遼東(りょうとう)の漢人を受容し、中国的な王朝の成立を目ざし、1636年国号を大清と定め崇徳(すうとく)と建元し、明の諸制度を取り入れた。ここに満州人、漢人、モンゴル人をあわせた、明に対立する小中国としての清朝を発足させたのである。また同年、朝鮮を親征し、翌年臣属させ、38年にはハルハを討って外モンゴルの諸部も服属させた。その後、しばしばモンゴル高原より長城を越えて華北に侵入したが、山海関を落とすことはできず、明との講和も不成立のまま43年に52歳で没した。しかし、後を継いだ子の世祖順治帝は、翌年北京に入城し中国に君臨した。

松村 潤]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホンタイジ」の意味・わかりやすい解説

ホンタイジ(皇太極)
ホンタイジ
Hongtaiji

[生]万暦20(1592).10.25.
[没]崇徳8(1643).8.9.
中国,清朝の第2代皇帝 (在位 1626~43) 。姓はアイシンギョロ (愛新覚羅)。諡は文皇帝。廟号は太宗。ヌルハチ (奴児哈赤)の第8子で生母はエホナラ (葉赫納喇) 氏。天命1 (16) 年に和碩貝勒に任じられ,長兄のダイシャン (代善) らとともに四大貝勒の一人として国政に参加,ドゥイチベイレ (第四貝勒) と称された。ヌルハチの没後にダイシャンを退けて汗位につき,年号を天聡と定め,遼東半島の平定,文館,六部,理藩院,都察院などを設置し,内政に努めた。天聡9 (35) 年に内モンゴルを平定し,チャハル部族長から「大元伝国の璽」を献上されると,それまでの満州人中心的な国号「後金」を「大清」と改めて皇帝位につき,崇徳と改元した。そののち李氏朝鮮を平定して朝貢国とする一方,しばしば中国本土に侵入したが,崇徳8 (43) 年に急死した。ホンタイジはその1代で清朝の中国支配の基礎を確立したといえよう。

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