イギリスの作家。1月18日ロンドンに生まれ、同地およびケンブリッジで教育を受けた。1903年、数学で学士。大学卒業後フリーのジャーナリストとなったが、06年に風刺雑誌『パンチ』の副編集長となり14年まで在職。同年から18年まで軍務についてのち文筆生活に入る。児童向け作品を書く前から、推理小説『赤い館(やかた)の秘密』(1922)など、随筆、小説、戯曲を多数発表して成功していたが、息子クリストファー・ロビン・ミルンが生まれてから、『パンチ』時代に身につけた作詩の技を駆使してつくった童謡集『クリストファー・ロビンのうた』(1924)を発表し大好評を博した。続いて、童話集『クマのプーさん』(1926)、童謡集『クマのプーさんとぼく』(1927)、童話集『プー横丁にたった家』(1928)を書き、子供にも大人にも愛される児童文学作家として、不朽の名声を得た。56年1月31日没。
[松野正子]
『原昌・梅沢時子訳『ぼくたちは幸福だった――ミルン自伝』(1975・研究社出版)』▽『小田島雄志・小田島若子訳『クリストファー・ロビンのうた』(1978・晶文社)』▽『小田島雄志・小田島若子訳『クマのプーさんとぼく』(1979・晶文社)』▽『クリストファー・ミルン著、石井桃子訳『クマのプーさんと魔法の森』(1977・岩波書店)』
イギリスの天文学者。理論天体物理学でエディントンと並ぶ。ハルに生まれ、1914年ケンブリッジ大学に入学。第一次世界大戦時には大気に関する軍事研究に携わり、1919年大学に戻って特別研究員に選ばれ、翌年太陽物理観測所の所長補佐に抜擢(ばってき)される。1924年マンチェスター大学応用数学教授となり、1929年オックスフォード大学教授に転じる。初期には恒星大気における電離理論を研究し、その後恒星内部構造論を手がけ、とくに白色矮星(わいせい)の解析に関してエディントンと論争を展開した。1932年以降宇宙論に取り組み、相対論に基づく宇宙空間に対してニュートン運動学に基づく独自の膨張宇宙の模型を構想した。超新星現象の起因が恒星崩壊にあることを指摘した。
[島村福太郎]
イギリスの地震学者。リバプールに生まれる。ロンドンのキングズ・カレッジの応用科学部に学ぶ。1871年アイスランドを旅行。ロンドンの王立鉱山学校(1872)およびドイツ国ザクセンのフライベルク鉱山学校(1872)に学ぶ。1873年春および1874年春ニューファンドランドを探検し、その間の1873年12月~1874年2月にはシナイ半島を一周旅行している。1876年(明治9)来日。工学寮で地質学・鉱山学を講じた。以後2~3年間に50以上の火山および北海道の鉱山の調査を行っている。とくに1880年2月22日の横浜の強震を機として地震研究に熱中し、日本地震学会を創立し、その主動者として地震学の発展に尽くした。研究は広範に及び、とくに地震計を考案し、日本および世界の地震カタログをつくった。1895年帰国後はワイト島のシャイドの自宅に観測所を設け研究を続けた。妻は、日本人の堀川利根(ほりかわとね)(1860―1925)。
[松澤武雄 2018年8月21日]
イギリスの童話作家,劇作家,エッセイスト。ケンブリッジ大学を卒業後,《パンチ》誌の編集者となるが,劇作に入る。J.M.バリーの流れをくむ明るい喜劇ものを得意とした。《ワーゼル・フラマリー》(1917),《ピム氏のお通り》(1919),《蟇(ひきがえる)館の蟇》(1929)などが好評を博する。結婚して長男のクリストファー・ロビンが生まれると,彼を寝かしつけるためのおとぎ話を作る必要から,クリストファー・ロビンを主人公とした童話《ぼくたちが小さかったとき》(1924),《ぼくたちは6歳》(1927)などを書いた。そして,それが発展して熊のぬいぐるみを主人公にした《クマのプーさん》(1926),《プー横丁に建った家》(1928)が誕生する。プーさん,クリストファー・ロビン,ロバのイーヨー,子豚など,どれもあどけなく,たどたどしい感じが,E.H.シェパードのかわいい挿絵とともに童心によくかない,20世紀で最も成功した童話の一つとなった。そのほかに探偵小説《赤い館の秘密》(1922)がある。
執筆者:出淵 博
イギリスの理論天体物理学者。ハルに生まれ,ケンブリッジ大学に学ぶ。マンチェスター大学を経て1929年よりオックスフォード大学の教授となる。初め星の大気構造,吸収線形成の理論,つづいて星の内部構造を研究し,これらの理論の初期の発達に大きく貢献した。ケンブリッジ大学のA.エディントンはしばしば協力あるいは互いによい論敵となった。たとえば星の吸収線に関するミルン=エディントンの大気モデルは,原子の線吸収係数と連続吸収係数との比が星の大気各層を通じて一定であることを特徴とし,吸収線の生ずる層を別に考えるシュスター=シュワルツシルトの大気モデルと対比される。内部構造論では,その微分方程式の原点において無限大となる解も物理学的意味を考慮すれば捨てるわけにはいかない(ミルン解,あるいはM解と呼ぶ)ことを力説するなど,独自の理論を展開したこともある。32年以後は宇宙論と取り組み,運動学的宇宙論という独特な膨張宇宙の理論を展開した。宇宙の一様性を唱える等価原理の概念は,ミルンが初めて提唱したものである。
執筆者:大沢 清輝
イギリスの鉱山技師,地震学者。リバプールの生れ。ロンドン大学キングズ・カレッジと王立鉱山学校を卒業。1876年26歳のとき工部省工学寮の招請によって来日,工部大学校において地質学,鉱山学を講じた。80年2月22日の横浜強震が動機となって日本地震学会が発足することになったが,その第1回総会は同年4月26日に開かれ,副会長のミルンは〈日本における地震学〉と題して演説,研究の方向を示した。彼の研究は,地震計の製作,地震観測網の整備,地震予知,震災対策など地震学のきわめて広い範囲にわたっている。主著には《地震とその他の地球の運動》(1886),《地震学》(1898)がある。94年帰国したが,その後も自宅に地震観測所をつくり,イギリス科学協会の地震委員会幹事を務めるなどした。彼の妻は日本人堀川トネで,ミルンの死後郷里の北海道函館へ帰った。
執筆者:藤井 陽一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(三好信浩)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1850.12.30~1913.7.31
イギリスの地質学者。リバプール生れ。王立鉱山学校卒。1876年(明治9)御雇外国人として来日。工部大学校で地質学と鉱山学を教えた。鉱物や火山を研究し,80年の横浜地震を契機として外国人学者による日本地震学会を設立し,副会長となった。地震学の研究に進み,地震学の父といわれた。地震計の製作,地震観測網の整備,地震予知・震災対策などの研究を提唱。95年帰国。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…架空世界を取り扱った物語は,J.インジェローの《妖精モプサ》(1869),G.マクドナルドの《北風のうしろの国》(1871),R.キップリングの《ジャングル・ブック》(1894),E.ネズビットの《砂の妖精》(1902),K.グレアムの《たのしい川べ》(1908),J.M.バリーの《ピーター・パンとウェンディ(ピーター・パン)》(1911),W.デ・ラ・メアの《3びきのサル王子たち》(1910)にうけつがれ,ファージョンE.Farjeon《リンゴ畑のマーティン・ピピン》(1921)は空想と現実の美しい織物を織り上げた。さらにA.A.ミルンの《クマのプーさん》(1926)が新領域をひらき,J.R.R.トールキンの《ホビットの冒険》(1937),《指輪物語》(1954‐55)は妖精物語を大成する。C.S.ルイスが架空の国ナルニアの7部の物語(《ナルニア国ものがたり》1950‐56)で善悪の問題を取り扱い,トラバーズP.L.Traversの〈メリー(メアリー)・ポピンズ〉5部作(1934‐82)はユーモアをこめて新しい魔女をつくり出し,ノートンM.Nortonも人間から物を借りてくらす小人たちのミニアチュア世界を5部作(1952‐82)で描いてみせた。…
…現在一般に受け入れられている立場は,宇宙は一様かつ等方であって,その大局的な特徴は宇宙のどの場所で眺めても同じであるとするものである。この仮定は,イギリスのE.A.ミルンに従って宇宙原理と呼ばれている。この立場に立てば宇宙には中心とか端の区別はない。…
※「ミルン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新