フランスの哲学者。ラ・ロシェル近くのロシュフォール・シュル・メールの生まれ。高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)卒業。在学中、サルトル、ボーボアールらを知る。ソルボンヌ大学(パリ大学)を経て、ベルクソン、ラベルの後を受けて、コレージュ・ド・フランスの教授となる。『行動の構造』(1942)、『知覚の現象学』(1945、以上は博士論文)において、主として後期フッサールの生活世界に注目する現象学を引き継ぎながら、それを新たに独創的に展開し、身体、知覚を中心に据えて、主体と客体、人間と世界、自己と他者、などの諸問題を論じた。デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように、対自主体、即自客体をはっきりとは分けず、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえようとしており、その意味で彼の哲学は「両義性の哲学」などといわれることもある。
1945年以来、サルトルと雑誌『レ・タン・モデルヌ(現代)』を共同で編集、この間サルトルにマルクス主義について種々の教示を与え、彼自身も『ヒューマニズムとテロル』(1947)において、革命的暴力を非難する資本主義社会そのものが実は日常的な暴力によって成立していることを鋭く指摘し、共産主義に希望を託したが、朝鮮戦争を機にこれに幻滅して非共産主義的左翼に転じた。そして『弁証法の冒険』(1955)では相変わらず現実のままの共産主義に希望を抱き続けるサルトルをウルトラ・ボリシェビズムだとして激しく非難して、彼とたもとを分かった。これに対してはボーボアールが激烈な反批判を行ったが、サルトル自身は沈黙を守り続けた。その後、彼らの友情は静かな和解の方向を歩み続け、メルロ・ポンティのあまりにも急であった死に際しては、サルトルはその死を悼んで「生けるメルロ・ポンティ」という感動的な文章を発表している。
生前は、サルトルの華麗な思想・言動の前にともすれば軽視されがちであったが、最近ではとみにその評価は高まってきている。とくに彼の思想のうちには、後の構造主義的な風土そのものを準備し、ないしはそれへの橋渡しをしたとみられる側面もあり――身体を媒介とした言語理論とフッサール解釈を通じての読解理論など――、彼の哲学から生産的な問題性を引き出すことは、今後のわれわれの課題として残されている。
[足立和浩 2015年6月17日]
『滝浦静雄他訳『行動の構造』(1964/新編集版・上下・2014・みすず書房)』▽『竹内芳郎他訳『知覚の現象学Ⅰ・Ⅱ』(1967、1974・みすず書房/中島盛夫訳・1982/新装版・2009・法政大学出版局)』
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