日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヤロビ農法」の意味・わかりやすい解説
ヤロビ農法
やろびのうほう
1950年代に、長野県下伊那(しもいな)の農民を通じて日本全国に広まった農業技術に対する用語で、一名ミチューリン農業とよばれる。ソ連のミチューリンは1917年の十月革命後、新技術による果樹品種の育成の功績をレーニン、スターリンに認められ、ソ連農業技術者として高く評価された。新技術とは、たとえば中部ソ連において、アジアとヨーロッパのような遠隔地間のナシを交配すると、両親の特性は失われ、新しい特性をもった品種が育成されるとか、接木(つぎき)の場合、接穂を一定の時期に取り去っても、若い台木はこの接穂のために性質を変えるというメントール法、また普通の交配では容易に結実しない場合、その間で接木をし、穂木(ほぎ)に台木の花粉を交配すると交雑が可能となる栄養接木雑種法などで、メンデル遺伝学では理解不可能な理論を提案した。春化(しゅんか)現象を究明したソ連のルイセンコはミチューリンの理論をさらに発展させ、のちにミチューリン‐ルイセンコ理論といわれ、外的環境条件に対する生物体の遺伝的変化を否定するメンデル遺伝学と、これを肯定するルイセンコ遺伝学の二つの路線が一時期(1950前後)世界各国で活発に論争された。
ヤロビとはロシア語のヤロビザーツィヤяровизация/yarovizatsiya(春播(まき)にする、春化の意)の略語で、ヤロビ農法とは、ルイセンコらの理論に基づいて、作物を温度処理によってその成長を支配し、作物の性質を変える農法を意味し、秋播き性→春播き性、あるいは晩熟性→早熟性という育種を目標とする場合と、低温処理による増収などをねらう栽培技術を目標としている。わが国のヤロビ農法はむしろ増収を目的としてイネ、ムギの穀物以外にトマト、キュウリなどの野菜にまで及んだ。しかしその成果が不明のまま1970年(昭和45)までには立ち消えとなった。
[田中正武]
『栗林農夫著『ヤロビの谷間――下伊那のミチュリン運動』(青木文庫)』