日本大百科全書(ニッポニカ) 「レセップス」の意味・わかりやすい解説
レセップス
れせっぷす
Ferdinand Marie, vicomte de Lesseps
Ferdinand de Lesseps
(1805―1894)
フランスの外交官。スエズ運河会社の設立者。カイロ、アレクサンドリアの領事になり、エジプトの王子サイードの親交を得るとともに、当時サン・シモン主義者が提唱していた地中海と紅海を結ぶスエズ運河の計画に興味をもつようになった。1849年のウディノ将軍麾下(きか)のフランス軍のローマ進攻の際に外交交渉の任務を負ったが、ローマ共和国との協定が越権行為であると譴責(けんせき)され、外交官を辞した。1854年にサイードが総督の座につくと招かれてエジプトに渡り、総督サイード・パシャの特別の取り計らいを得てスエズ運河会社を設立した。皇后ウジェニーとナポレオン3世に支援されながら、諸困難を不屈の信念で克服して、ついに1869年11月に運河の開通に成功した。この功績によって科学アカデミー会員に選ばれた。さらに、1881年には設立されてまもないパナマ運河会社の社長に就任し、パナマ運河開削という難事業に取り組んだ。1884年にフランス・アカデミー会員に選ばれたが、会社のほうは、難工事、乱脈経営に資金調達の行き詰まりが重なり、1889年に破産した。そしていわゆるパナマ疑獄事件(パナマ事件)が起こった。レセップスは背任と詐欺のかどで禁錮5年と罰金3000フランの刑を科された。最高裁判所は時効を援用して無罪にしたが、事業の失敗から精神障害を起こし、痛ましい晩年を送らねばならなかった。
[本池 立]