イタリア・ルネサンス期最大の詩人。騎士道文学の傑作『狂えるオルランド』を著したことで有名。9月初旬、フェッラーラ公国エステ家の家臣だった父ニコロの任地、レッジョ・ネレミリアで生まれる。同地で平穏な少年時代を送り、ルドビーコが10歳のとき、一家はフェッラーラに居を定める。父の勧めに従って法学の道に進んだものの、身が入らず、やがて文学を天職と定める。人文主義者グレゴリオ・ダ・スポレートからギリシア・ラテン文学の教えを受け、ラテン語による詩作に手を染める。1500年、父親の死が彼の恵まれた青少年時代に終止符を打った。10人兄弟の長子であったルドビーコの肩に、一家を扶養する責任がかかったからである。文学への関心と実人生の必要を両立させるために、彼は1501年、亡き父に倣ってエステ家に仕官し、カノッサの城砦(じょうさい)を治めた。1504年からは、フェッラーラ大公アルフォンソの弟、イッポーリト枢機卿(すうきけい)の身辺に仕えることになった。
当時は、イタリアの覇権をめぐるフランス、スペイン=神聖ローマ帝国、教皇庁三つどもえの緊張のもと、フィレンツェ、ミラノ、フェッラーラ、マントバなどの有力都市が、外では戦いと争いに明け暮れ、内に盛期ルネサンスの宮廷文化の花を咲かせていた時代であり、一方の雄フェッラーラ公国エステ家の枢機卿に仕えたアリオストは、重要な外交使節としてマントバ、フィレンツェ、ローマなどへたびたび赴き、教皇ユリウス2世の怒りを買うという苦汁もなめた。職務のかたわら、宮廷で演ぜられる2編の喜劇『箱騒動』La Cassaria、『替玉』I Suppositiを書き、1504年から、未完に終わったM・ボイアルド作の騎士道叙事詩『恋するオルランド』の後を継ぐ『狂えるオルランド』の草稿を練った。ボイアルドは、30年ほど前に彼自身がエステ家に仕えた文学者であり、この先輩の中断した仕事を受け継ぐことは、ひとりアリオストの文学的な野望にとどまらなかった。各都市、宮廷が政争のみならず互いの文化の充実を競い合っている事情をうかがうならば、それはフェッラーラ・エステ家という一つの文化的主体・制度が臣下のアリオストに課した宿題であった。言い換えればこれは、ルネサンス期におけるメチェナティズモ(文化庇護(ひご))、そのなかでの伝統、制度と芸術家個人の相克の問題として位置づけることができる。1513年、旧知のメディチ家のジョバンニがレオ10世として教皇の座につくと、アリオストは転機を求めて聖職に禄(ろく)を得る可能性を探ったが、むなしかった。1516年、イッポーリト枢機卿に献ずる形で八行韻詩、40歌からなる『狂えるオルランド』初版を刊行。翌1517年、枢機卿から、新たな任地ハンガリーへの同行を求められたが、アリオストはこれを断って職を解かれ、ついでアルフォンソ大公のもとに仕えた。失意と迷いの時期であったが、その苦い経験はやがて芸術家としての成熟を準備したといわれる。この時期の詩人の実像を伝える作品として、7編の書簡体による『風刺詩』Satire(1517~1525)がある。
1522年、心ならずも、ガルファニャーナ地方に赴任し、政情の不安な同地の治政に手腕を振るった。エステ家での職務は得心のゆくものではなかったが、一家を養うという制約のもとでアリオストは懸命にその義務を果たしたのである。聖職につくか家庭をもつかというディレンマに彼は終始悩まされたが、愛した婦人アレッサンドラ・ベヌッチと、その夫の死後、1528年にひそかに結婚し、晩年にはようやくかなえられた平穏な生活のなかで、畢生(ひっせい)の叙事詩『狂えるオルランド』の推敲(すいこう)に打ち込んだ。1521年に第2版を、1532年に46歌からなる増補・訂正版を世に送り、また旧作の喜劇の書き直しと新作の執筆に励んだ。こうして詩人としての名声がイタリアのみにとどまらずヨーロッパに広がったさなかの1533年7月6日、フェッラーラで58年の生涯を閉じた。「ダンテのなかに中世は終わり、ルドビーコのなかでルネサンスが終わった」とデ・サンクティスは『イタリア文学史』においてアリオストを位置づけている。フェッラーラにはアリオスト図書館がある。
[古賀弘人]
『河島英昭訳『オルランド狂乱(抄訳)』(『澁澤龍彦文学館 1 ルネサンスの箱』1993・筑摩書房・所収)』
イタリア・ルネサンス期最大の詩人。レッジョ・エミリアに生まれ,10歳のとき,エステ家の行政官だった父とともにフェラーラへ移り住んだ。人文主義者についてギリシア・ラテン語を学び,父の勧めによって法学の道に進んだものの身が入らず,やがて文学を志す。しかし1500年,父親の死によって,10人兄弟の長子であったルドビーコは,大家族を扶養するために亡き父にならってエステ家に仕えた。以後,天職と定めた文学上の野心と実人生の必要をともに満たすことがアリオストの一生を貫く課題となり,芸術家にとって何ものにも代えがたい内奥の自由を守るための葛藤が,一個の人間,宮廷人としての,彼の人生劇を形成した。
1503年には,フェラーラ大公の弟の枢機卿イッポーリト・デステに側近として仕え,重要な外交使節として,マントバ,フィレンツェ,ミラノ,ローマ等へたびたび赴いている。04年から,職務の合間を縫って,未完に終わったM.ボイアルド作の騎士物語詩《恋せるオルランド》のあとを継ぐ大作《狂えるオルランド》(初版1516)の執筆にかかり,また古典形式によるイタリア喜劇の創始とみなされる《箱物語》(1504),《替え玉》(1509)を書き,上演した。17年,枢機卿から新たな任地ハンガリーのブダへの同行を求められたが,アリオストはこの〈命令〉を拒否し,職を辞した。7編の書簡体による韻文《風刺詩Satire》(1517-25)が,この時期の詩人の満たされぬ胸の内を証言している。ついでアリオストは,文学者としての経歴と才を見込まれ,エステ家のアルフォンソ大公に仕えた。21年,初版に文体・言語の両面において推敲を加えた《狂えるオルランド》第2版を上梓。その後,エステ家の領地のなかでも最も治安の悪いガルファニャーナ山岳地帯の統治をゆだねられ,3年余にわたって同地をどうにか平穏裡に統治した。25年,劇場監督に任命されてフェラーラへ帰り,10年前にフィレンツェで知りあった婦人とひそかに結婚,ようやくかなえられた,親しい者だけに囲まれた静穏な暮しのなかで,《オルランド》の推敲,旧作の喜劇の改変,新作《レーナ》(1528),《書生たち》(未完)の執筆に励んだ。中世フランスの叙事詩《ローランの歌》に始まる騎士物語叙事詩の到達点,集大成となった畢生の大作《狂えるオルランド》決定版を上梓したあと,33年7月,59年の生涯を終えた。
いまや古典となったデ・サンクティスの《イタリア文学史》は,中世を締めくくる作品としてのダンテの《神曲》に比して,〈アリオストのうちにルネサンスは終わった〉とし,《狂えるオルランド》は〈ルネサンスの精華,イタリアでいまなお唯一,神聖なものとして崇拝されているもの,“芸術”に捧げられた神殿である〉と評している。日本へのアリオストの作品紹介はタッソとともにきわめて遅れており,《狂えるオルランド》の邦訳も坪内章の抄訳のみにとどまっている。
執筆者:古賀 弘人
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1474~1533
ルネサンス期イタリアの代表的詩人。フェッラーラのエステ公家に仕え,ガルファニャーナの執政官などを務めた。代表作は叙事詩『怒れるオルランド』(1516年)。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ドビツィBernardo Dovizi(1470‐1520),通称ビビエナBibbienaという枢機卿(すうききよう)の書いた作品で,双子や変装による取違えを扱った《ラ・カランドリア》(1513ころ)は,そうしたルネサンス期の古典喜劇の再評価の風土から生まれてきた戯曲である。《狂えるオルランド》という長編の英雄物語詩を書いたL.アリオストは,本格的な形式を備えた戯曲を書いた最初の劇作家である。彼は《宝石箱》などあわせて5編の戯曲を書き,ルネサンス時代の喜劇に新風をもたらした。…
…すでにペトラルカはラテン語による叙事詩《アフリカ》(1338ごろ執筆開始)によってローマで桂冠詩人の栄誉を受け,ボッカッチョはウェルギリウスとスタティウスに範を取って叙事詩《テセイダ》(1340‐41)を著したが,ルネサンス期に入ってまずL.プルチの《モルガンテ》(1483)が発表された。この叙事詩は武勲詩のパロディの一種であり,こうして始められた古典と中世騎士道物語の混交は,M.M.ボイアルドの《恋するオルランド》から,ルネサンス期最大の叙事詩L.アリオストの《狂えるオルランド》(決定版1532)を経て,バロック期最大の叙事詩T.タッソの《解放されたエルサレム》(1565‐75)に受け継がれ,最後にG.マリーノの《アドーネ》(1590‐1616)のあまりにも音楽的な語法の作品に達した。 ここで,15世紀から17世紀にかけてイタリア文学の背骨を成した長編叙事詩の作者たちが,フィレンツェやフェラーラなど,各地の専制君主の宮廷詩人であった事実を思い返しておく必要があるだろう。…
…イタリアの詩人L.アリオスト作,8行韻詩46歌から成る騎士物語叙事詩(決定版1532刊)。ボイアルド作《恋せるオルランド》のあとを継ぎ,《ローランの歌》の伝承に始まる中世騎士道物語の到達点を示す作品。…
※「アリオスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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