イタリアの詩人。フェッラーラのエステ家に縁の深い貴族で、レッジョ・ネレミリアに近いスカンディアーノの伯爵家に生まれる。父方の祖父が文人、母方の叔父が高名な人文主義者(ウマニスタ)T・V・ストロッツィという家庭環境のなかで古典に親しみ、早くからエステ家の宮廷に足しげく出入りした。1469年、若い女性A・カプラーラに実らぬ恋を抱き、のち『愛の本』(1476)にまとめられる、俗語によるペトラルカ風の愛の詩を歌った。76年、大公エルコレ1世の「朋輩(ほうばい)」の資格でエステ家に正式に仕える。騎士物語への宮廷の根強い嗜好(しこう)に刺激されて『恋するオルランド』に着手したのはこのころであった。まもなく貴族出の女性と結婚したあと、モデナの行政長官を務め、83年『恋するオルランド』1、2部を出版した。87年、今度はレッジョの長官として赴任、しばらくは平穏に過ぎたが、94年、エミリア地方はイタリア半島を南下するシャルル8世の軍勢にさらされ、病みがちであったボイアルドは、その騒擾(そうじょう)をめぐる労苦のために、94年12月9日、レッジョで世を去った。そのため彼の騎士物語叙事詩は第三部9歌で中断、未完に終わった。作品にはほかに牧歌、詩劇、ギリシア古典の翻訳がある。『恋するオルランド』はカロリング王朝時代の騎士物語から大筋と登場人物を借りて、ブルターニュのそれ(『アーサー王物語』など)の愛と冒険の精神のうちに融合させたものといわれ、これを引き継いだアリオストの『狂えるオルランド』に至って中世騎士物語は集大成されることになる。なお『恋するオルランド』は1世紀あまりののち、F・ベルニの手で流麗なトスカナ語への移し換えが行われ、そのベルニ版による後世の流布も見落とすことはできない。
[古賀弘人]
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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