改訂新版 世界大百科事典 「アルメニア人」の意味・わかりやすい解説
アルメニア人 (アルメニアじん)
Armenian
イラン,トルコ,カフカスが接するアルメニア地方の住民。自称はハイHay。形質はコーカソイド人種のアルメノイド型で,インド・ヨーロッパ語族のアルメニア語を話す。アルメニア共和国を中心に,旧ソ連邦内各共和国,中東,アメリカ大陸等に分散している。人口は旧ソ連邦内に462万(1989),旧ソ連邦外に180万(1967)である。10~11世紀にビザンティン帝国の東進とセルジューク朝の侵入のために,政治的独立を失った多くのアルメニア人が母国を捨てた。移住者の主要な波はキリキア(小アルメニア)に向かい,ここにアルメニア人国家を建てた(1080)。十字軍の建設した諸国と共存関係を持ち,レバント交易で栄えたこの国家は,1375年エジプトのマムルーク朝に滅ぼされたが,その後は,オスマン帝国の首都イスタンブールがアルメニア人の商業活動の中心となり,アルメニア教会のカトリコス座も置かれた。また移住のもうひとつの波は,クリミア半島に向かい,主要都市にはアルメニア人商人,手工業者の居留地が置かれた。彼らの大部分は16~17世紀ポーランドに再移住した。16世紀アルメニアはトルコとイランの間に分割されたが,サファビー朝のシャー・アッバース1世(在位1588-1629)は,イラン領アルメニアの住民多数を首都イスファハーン郊外のジョルファに移した。ジョルファ商人は,サファビー朝の対欧露交易の独占権を与えられて栄えた。しかし今日では,イラン系アルメニア人の経済活動の中心はテヘランである。トルコでは,対欧露政策をはじめオスマン帝国の抱えるさまざまな矛盾から19世紀にアルメニア人に対する迫害が始まり,特にアブデュルハミト2世治下の1894-96年と,青年トルコ党政権下の1915-18年には,組織的な強制改宗,国外追放,虐殺がおこなわれ,一説によると1915-18年だけで150万人が死亡し,60万人が国外に移住したといわれる。アメリカ合衆国在住者の多くは,この事件の際の移民の子孫である。
→アルメニア
執筆者:北川 誠一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報