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イトゥルビデ イトゥルビデIturbide, Agustín de

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イトゥルビデ
Iturbide, Agustín de

[生]1783.9.27. バリャドリド
[没]1824.7.19. タマウリパス,パディリャ
メキシコの軍人。皇帝 (在位 1822~23) 。父はスペイン人,母はメキシコ人の富裕な家に育ち,1810年メキシコ独立革命が始ると,副王軍の軍人として活躍。 13年には J.モレロス・イ・パボンの率いる独立軍に大打撃を与えるなど功績をあげた。 20年本国スペインで革命が起り,自由主義的な『1812年憲法』が復活すると,メキシコでは保守派,教会の不安が高まった。独立軍鎮圧にあたっていたイトゥルビデはこの機会をとらえ,21年2月 24日,「帝制,ローマカトリックの国教化,スペイン人とメキシコ人の平等」を骨子とするメキシコ独立計画 (→イグアラ綱領 ) を発表,革命軍と和平して軍をメキシコシティーへ向けた。同年8月副王も独立を認め (→コルドバ条約 ) ,9月イトゥルビデはメキシコシティーへ入城。翌 22年スペイン王フェルナンド7世がメキシコ皇帝就任要請を拒否すると,みずから皇帝となり,アグスティン1世と称した。しかし,共和制支持者はこれに反対,中央アメリカ遠征の失敗などもあって各地に反乱が起り,結局 23年3月,在位わずか 10ヵ月で退位,ヨーロッパへ亡命した。翌年再入国を企てたが,逮捕され銃殺された。

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世界大百科事典 第2版の解説

イトゥルビデ【Agustín de Iturbide】

1783‐1824
メキシコ皇帝。在位1822‐23年。17歳で副王軍に入隊し,イダルゴモレロスから独立戦争への加勢を要請されたが拒絶した。しかし1820年スペイン本国の情勢変化に伴い,〈プロフェサ綱領〉や,独立,人種差別の撤廃,教会の財産・持権の保護などをうたった〈イグアラ憲章〉を根拠にして,反乱軍を巧みに懐柔し,21年8月24日コルドバ条約で独立を達成した。しかし,その直後に君主制を樹立,皇帝となったため,共和制主義者により国外に追放され,再入国したとき,反逆者として銃殺刑に処せられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イトゥルビデ
いとぅるびで
Agustn de Iturbide
(1783―1824)

メキシコ独立を実現した軍人、メキシコの初代皇帝(在位1822~23)。スペイン人を父にクリオーリョ(メキシコ生まれの白人)を母に生まれ、1810年独立運動が始まると、スペイン軍の士官として活躍し、とくにモレロスの率いる独立革命軍に致命的打撃を与えた。しかし、20年スペイン本国で自由主義革命が成功すると、この波及を恐れて21年「イグアラ・プラン」を発表し、本国からの分離独立を宣言した。スペイン王室をメキシコへ迎える計画が失敗したのち、22年「アグスティン1世」と称して自ら帝位につき、中央アメリカも併合した。しかしその反動的政策により民衆の支持を得られず、在位10か月でヨーロッパへ亡命したが、24年再入国を企て銃殺された。[野田 隆]

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